文化的意味と文化的テーマについて

文化の全体論的理解について


I. 文化的意味(Cultural meanings)

 質的研究では、当事者における「意味」はつねに重要な関心事です。「意味」の意味については、哲学や言語学も含めて膨大な議論が存在しますけれども、質的研究では特に、「意味」が当事者が生活している社会的・文化的世界に依存して形づくられているというとらえ方を基本にします。従って、文化人類学や社会学における立場で議論されている「意味」のとらえかたを視野に入れる必要があります。

1.意味の意味

 文化人類学の伝統において、「意味」は文化をとらえる上での包括的な概念をなしています。質的研究者に頻繁に参照される著名な文化人類学者クリフォード・ギアーツは、人間を「自らが紡ぎだした意味の網の目に支えられた動物」であるととらえ、「文化とはそのような網の目」であるとしています。ここでは、「意味」はあるひとまとまりの人々の間で共有されている知識をさすといってよいでしょう:事物、行い、出来事、その他あらゆるものについて人々の認識の仕方、感じ方、判断の仕方を枠づけ・方向づけしている知識であり、従って、その人々の生活する「現実世界」を形づくるものです。
 具体的に、例えば、携帯電話(やPHS)について考えてみましょう。携帯電話というモノに対して今日さまざまな意味が人々によって与えられています。ビジネスの最先端で生き残りをかけて生活している人々にとっては携帯電話には、ノートパソコン、電子手帳、インターネットなどど連携して使う「モバイルグッズ」と呼ばれる仕事の「武器」の一役を担うものとしての意味が作られているでしょう。生徒たちの問題行動に毎日悩まされている中学校の管理職にとっては、「うちの生徒がまた事件を起こした」ということを知らせる「恐怖のメッセンジャー」としての意味が作られているでしょう。生活を楽しむことを優先する若者の世界では、ポケベルにとって代わって現れたもので、仲間意識の確認、コミュニケーションの道具、アクセサリーとして等の意味が強く形成されているでしょう。また、電車の中やレストランなどの公共の場では、騒々しい迷惑な存在としての意味も与えられています。
 このように「意味」を議論するときに「意味」を与える先の対象のことを、記号論では一般にシンボル(symbol, 象徴)ないしテクスト(text)といいます。上の例では携帯電話ですが、モノ(詳しくいえば、モノのあるカテゴリー)である必要はなく、現象、出来事、行為、コトバ、など人間が知覚したり経験できるものなら何でも構いません。そして、シンボルないしテクストに付与される意味とは、それが、他のシンボルやテクストとどのように関わり合うものとして人々に理解されているかを指します。「携帯電話」というシンボルは、「携帯可能性」を持つ「電話」と理解しただけでは、いまの社会の文化の理解しようとする場合にはあまり役立ちません。それが、今日の社会のビジネス、教育問題、アイデンティティ形成、コミュニケーション、ファッション、公共のマナーなどにおける様々なシンボルとどのように関わっているかを捉えることが必要なのです。当然、何かの「意味」を議論するときには、単一のシンボルだけをとりあげることはできず、関連しあっているシンボルの集まり、すなわちシンボル・システムをつねに取り扱わなくてはなりません。文化的意味をこのように捉えることによって、いろいろなシンボルのさまざまな関係によって張り巡らされた「網の目」としての文化が見えてくるのです。

2.意味と社会的相互作用

 意味を動的に捉えることも大切です。質的研究の理論的枠組みとしてよく参照されるシンボリック相互作用論(symbolic interactionism)とよばれる社会心理学理論では、「意味」が中心的概念となっています。その理論の3つの基本的前提を見てみましょう:
 (a)「人間は、ものごとが自分に対して持つ意味にのっとって、そのものごとに対して行為する」
 (b)「このようなものごとの意味は、個人がその仲間と一緒に参加する社会的相互作用から導き出され、発生する」
 (c)「このような意味は、個人が、自分の出会ったものごとに対処するなかで、その個人が用いる解釈の過程によってあつかわれたり、修正されたりする」(ブルーマー, 1991, p. 2)
ここでも、「意味」というものが、人々の思考や行動を左右する「現実世界」を作り上げているという点でギアーツの述べていたものと共通しています。ただ、ここでは特に「意味」の生成や変容というダイナミックな側面が強調されています。人々の認識の仕方、感じ方、判断の仕方は固定されたものではなく、人々の間の交流を通じて生み出され変容していくという点を明確にしています。勿論、文化的意味には、人々の間で比較的変容せずに安定した意味が維持されているようにみえるものが大半を占めています。そうでなくては、コミュニケーションが深刻な危機に陥るでしょう。しかし、あるシンボルの意味が安定してみえるのは、実際は、その意味が変容しそうになると戻したりする見えないダイナミズムが人々の間で働いているためと考えることができるでしょう。
 例えば、新興宗教に入信した若者たちの事件を考えてみましょう。その若者たちの考え方(例えば、「ハルマゲドンが近づいている」「その災いはサタンの仕業だ」)や行為(例えば、さまざまな儀式や修行)は、その宗教を知らない一般の人々にとっては、馬鹿げて見えるでしょう。しかし、新興宗教の教義や教祖の考えの中に浸りきった中で生活している者には、きわめて現実性のあるものなのです。信者の多くも、入信する前はその宗教の考え方に必ずしも同調していなかったといわれています。ふとしたきっかけで勧誘され、その宗教の集会に参加して、世間一般から隔絶された環境の中で他の信者たちに囲まれて行動や発言を合わせていくうちに、それまで馬鹿げて思えていたことが真実味や重要性を帯びて見えてくるといわれています。他の信者たちとの社会的相互作用が、入信の過程において重要な役割を演じていたわけです。これは、ワイドショー、スポーツ紙、週刊誌等の誇大なスキャンダル報道に興味をそそられてそれらの洪水に接していると、たとえそれらが単なる噂を増幅しただけの報道であっても、いつの間にか「渦中の人」がいかがわしい人物に見えてくる場合があるのと通じるものがあるでしょう。

3.意味の共有

 上述の新興宗教の例をもう少し考えてみましょう。新興宗教の教義や教祖の考えを、信者の全員が等しく「共有」しているでしょうか。おそらく、新米の信者は、断片的にしか知らないでしょう。やや信仰歴の長いものでも教祖やその高弟や長老から「教え」を請うことが多くあるでしょう。教祖やその高弟とみられる者だけが、教義の「奥義」を知り尽くしているとみなされるでしょう。しかし、信者はいづれも教義や教祖の考えを当然のこととして受け入れています。文化的知識についての「共有」というのは、その存在、真実性、価値を当該の集団の中で当然のものと受け入れられていることであって、必ずしも集団の誰もが等しく知っているわけではありません。自分が知らなければ当該集団の誰か他の人が知らせてくれるものと前提されている種類のものです。また、たとえ知っていても明確に自覚していたり説明できるとは限りません(cf. Mehan & Wood, 1975, pp. 99-101)。集団の人々の間でどのように文化的知識が分布しているかは、集団の構造、集団内の交流の仕方や知識の種類などによって異なることでしょう。

4.意味の種類あるいはレベル

 データ分析において扱いやすくするために、シンボル・システムとしての文化的意味をいろいろな種類やレベルに分けてとらえることが必要となります。文化人類学や社会学でよく利用されているものをみてみましょう。

(1)意味の範囲

 もっとも広範囲のものごとに関わる意味の形態としては、世界観、イデオロギー、思想、宗教的教義など人類や人生一般に関わる信念体系があります。これに属する代表的なものとしては、数学教育では、ウォーカーダイン(Walkerdine, 1988)の研究があります。彼女は、フーコーのポストモダンの思想を背景にして、従来の発達心理学(特に、ピアジェの発達段階論)および数学教育のあり方を問い直しています。彼女は、幼稚園での教師と子どもの間の算数に関する問題をめぐるコトバのやりとりを、家庭での母親と子どもの間のそれと比較し、学校における数学の問題の脈絡、および発達心理学の実験で使われる数学の課題の脈絡、が家庭における脈絡と大きな違いがあることを指摘しました。この脈絡の違いの分析をもとに、彼女は数学的議論の背後にあるイデオロギーを探りました。ラカンの精神分析理論を援用し、フォーマルな数学的議論には、世界をコントロールする力をもつ存在が前提されており、発達心理学および数学教育の理論は、そのような存在への欲望を子どもの中に生じさせることを理想としていると彼女は論じています。
 もう少し限定した範囲のものとしては、例えば、生徒たちが数学に対していだく信念があります。シェーンフェルド(Schoenfeld, 1988)は、1年間にわたって、高校の幾何のクラスを観察しました。そこでは、作図の問題になるととたんに教師が証明を要求しなくなり生徒たちが作図問題に対し証明問題とは全く違った取り組みをするようになったといいます。また、教師が証明の形式面の完全さを強調したがために、生徒たちが証明のアイデアを生み出すことよりも形式を整えることに多くの努力を費やしていました。彼は、生徒たちは以下のような望ましくない信念を形成していると指摘しています:
(a)フォーマルな数学の手続き(例えば、「証明」)は発見や発明とほとんどもしくは全く関係ない。系:生徒は「問題解決モード」にあるときはフォーマルな数学からの情報を利用し損なう。
 また、宿題やテストでは5分以内で解ける単純な練習問題が大部分であり、それが大量に生徒に課されていたといいます。その結果、(b)「内容を理解した生徒は出された数学の問題を5分以内に解くことができる」と考えるようになったといいます。授業は、多くの数学的事実を記憶することと細切れの単純なスキルの習熟が中心となり、生徒は数学に対して受け身の態度を形成し、(c)「天才だけが数学を発見したり、創造したり、本当に理解できるのである」という信念を抱くようになったと指摘しています。
 より小さい範囲に関する意味としては、特定の生活空間、例えば、施設、共同体、地域などに関わる意味が考えられるでしょう。数学教育では、生徒が教室での数学学習に対していだく意味などが典型でしょう。例えば、ティント(Tinto, 1990)は、高校の幾何の4つのコースを観察し、その生徒たちをインタビューしました。生徒たちは、数学は「先生から学ぶ」ものとして理解しているようでした。彼らは、「先生の言うことを聞く(listen)」ことが数学ができるようになるために最も大事であるといいました。教科書や教室外のリソースは学習の中心になく、これは国語や社会の授業での「聞き方」とは違っていました。そこには、先生から説明された知識を覚え、出された課題をこなしていくことが成功の秘訣であるという姿勢が表れており、わからないときは先生のいうことを「もっとしっかり聞く」ことによって対処しようと考えていました。
 さらに限定された範囲での意味としては、特定のモノ、ジェスチャー、コトバ、記号、概念の意味などがあり、これは枚挙にいとまがないでしょう。

(2)意味を表現するものとしての規範

 シンボリック相互作用論では、前述のように「人間は、ものごとが自分に対して持つ意味にのっとって、そのものごとに対して行為する」と論じています。人々の個々の状況での行為を理解するときに、その状況で働いている社会的・文化的な規範、モラル、ルールを理解することが重要です。規範、モラル、ルールは、特定の行為のあり方を明確に促したり抑制したりするものとして、意味の形態でも重要な種類と考えられています。
 例えば、エドワーズとマーサー(Edwards & Mercer, 1987)は、学校の授業における教師と生徒たちの間のやりとりに以下のような暗黙のルールがあると指摘しています:
a. 質問を発するのは教師である
b. 教師は[質問の正しい]答えを知っている
c. 同じ質問を繰り返したときは、[生徒の]回答が間違っていたことを意味する(p. 45)
 これらは日常生活において質問したり答えたりする場面のルールとはかなり異なります。実際、教師とは違って、日常生活では普通、人は自分の知らない情報を得ようとして質問するので、質問は答えを知らないときに行います。また、同じ質問を他の人にするような行為は、質問を初めに受けた人が「知らない」とか「答えに自信がない」とか表明しない限り、失礼にあたるのでしないでしょう。このように、学校の授業の中に現れるルールや規範を調べることによって、学校外の生活とは異なる文化が学校の授業の中に形成されていることが見えてくるでしょう。

(3)顕在の程度

 「意味」の中には、明確な形をとっていて当事者たちに自覚されているものもあれば、暗黙に存在していて個々の当事者にはほとんど自覚されていないものがあります。質的研究において「当事者たちからみた世界をとらえる」というとき、当事者たちにとって日常的すぎて見えないものを見えないままにしておくことではありません。当事者たちにとって何が見えて何が見えないのか、すなわち、何が普通で何が普通でないかをそれぞれ取り出して論じることが必要なのです。それゆえ、当事者には自覚されていなくても、当事者達の行動の中に潜在的なパターンをとらえてその意味を浮き彫りにするのも質的研究の重要な役目です。

II. 文化的テーマ(Cultural themes)

 前節で、社会的・文化的現象を研究するときに重要となる文化的意味とは、当該の社会的・文化的システムの中で生活している当事者たちの間で共有されている知識であるとしました。そして、それらにはいろいろな種類やレベルのものがあることを説明しました。質的研究においては、これら意味を理解することは基本になります。しかし、民族誌的研究の場合のように特に文化の理解をめざす研究の場合は、これら意味を次々と見いだしてリストを作成するだけでは十分ではありません。このことは、ジャズのある曲がテナーサックス、トランペット、ピアノ、ベース、ドラムスで演奏されているからといって、それぞれの楽器のパートの演奏をバラバラに聞いたのでは本来の演奏全体のもつ意味を味わうことはできないというのと同じ理由からです。全体は構成要素の寄せ集め以上のものだからです。構成要素が互いにどのように関連しあっているのか、および構成要素が全体とどう関わり合っているのかを理解し全体像がどのように創出されているのかを把握することは、「全体論的理解」(holistic understanding)と呼ばれます。文化研究では、文化について全体的理解を試みるのです。
 文化の全体論的理解のために必要となるのが、他の多くの文化的意味を関連づけているような種類の文化的意味を見いだすことです。文化的意味の中には、さまざまな状況で頻繁に参照されたり適用されて、生活の中の思考や行為を互いに関連づける種類のものがあります。例えば、日本の従来の教育では、「なんでもがんばることが大切である」と言い表わされる原則がさまざまな場面でみられることはよく知られています。例えば、教師が生徒に対して勉強でも部活動でも「がんばろう」と激励したりする場面などに現れます。「がんばり」が見えないと判断されると「遊んでいる」として攻撃されたり排除される傾向があります。反対に、「がんばったね」というのはほめ言葉とうけとられます。このようにさまざまな状況で頻繁に現れ(recurring)、社会的・文化的システムの中での思考、感情、行為を互いに関連づけている(connecting)種類の知識(意味)を、文化的テーマといいます。文化的テーマをとりだすことが文化の理解に重要となるのです。
 文化的テーマは、原理、原則、規則、モットー、方針、主義、思想、価値観などのかたちをしており、それらを共有している人々の認知的(およびそれと不可分の情意的)活動を枠づけたり方向づけたりするものです。社会学者スプラドレーは、文化的テーマを以下のように定式化しています:

民族誌的研究の目的のために私は、文化的テーマを、多くの領域において頻繁に現れ、文化的意味の下位システムの間を関係づけるものとして機能する、暗黙的ないし明示的な、認知的原理(cognitive principle)と定義しよう。 (Spradley, 1979, p. 186)

 ひとまとまりの社会的・文化的システムには、さまざまなレベルのおいてさまざまな種類の文化的テーマが関わっています。質的研究は、必ずしも文化の記述が中心になるわけではありませんが、自分が関心をもっている社会的・文化的現象について、自分の分析の単位および分析で明らかにしたい側面に応じて、そこの潜む文化的テーマ(通常は、複数個)を理解することが大切です。例えば、筆者は、中学校の数学の論証の授業(学校教育の慣習的行為)を分析の単位において何度か民族誌的手法でそのさまざまな側面を研究しています。そのデータ分析の中から立ち現れた主要なテーマは「理由がなくては言えない」と定式化できるものです。これは、論証学習の導入、証明の書き方、証明問題についての話し合い、証明をクラスで発表するとき、テストの採点などにおいて頻繁に現れる原則であり、論証学習のさまざまな側面と関わっていました。
  また,日本の公立学校の教員は,授業研究会を定期的に開催しています。教員同士がお互いの授業を見ることは,教員の資質向上のための伝統になっています。そうした中で教員特有の授業実践のとらえ方も生まれてきます。よい授業でないというときに頻繁に使われる,「一方的に流す」授業,「お祭り授業」というような教員独特の言い回しは,授業の進め方についての教員の間で共有されている文化的テーマに起因するものでしょう。
 昔の文化人類学者は、ひとつの文化全体を貫く単一の抽象的なテーマを提案したことがありましたが、今日はそのようなことは現実的でないとされています。ひとつの文化には状況に応じてさまざまなテーマが関わっていると考えるべきでしょう。また、文化の描き方には、さまざまなアプローチがありますので、同一の文化を研究していても研究者によってテーマの定式化の仕方も異なると考えてよいでしょう。



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