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血友病―リチャードさんの語り

リチャードは65年間以上深刻な血友病とともに生きてきた経験を振り返り、NHS(国営医療サービス制度)が始まる前から現在までの治療の変遷を回顧します。

私は65歳で、深刻な血友病Bに苦しんでいます。年齢は重要です、というのは、19世紀前半までは第VIII因子または第IX因子が1%未満の深刻な血友病患者が成人期まで生き残る可能性はわずかだったからです。

血友病は血液が第VIII因子(血友病A)または第IX因子(クリスマス病としても知られている血友病B)の欠乏のため凝固しない遺伝性出血性疾患です。重症度は、重度2%未満と、中程度2-5%、軽度5%以上と様々です。5%以上の血友病患者は限りなく正常に近い生活が送れ、事故や手術、抜歯などで、出血が長引くという経験がない限り、なかなか診断されません。

血友病は、女性保因者を通して伝えられて、男児によって引き継がれます。これらの影響を受けた男性の娘が欠陥遺伝子を持つことになるのです。この遺伝性疾患の最も有名な例が、それをロシアとスペインの王室に引き継いだビクトリア女王の子孫にあります。

血友病はわずかな切り傷から出血して死ぬという一般的概念があります。しかしそうではありません。血友病は、普通より大量に出血するわけでも速く出血するわけでもありませんが、手当しない限り、出血はより長い期間にわたって続きます。

血友病患者は体のいかなる部分の出血症状でも苦しみ、場所によっては、例えば頭からの出血は致命的でさえあります。しかしながら、血友病患者が経験する最も大きな問題は、関節(関節血症)と筋肉内出血で、それは痛みを伴う手足の機能不全や奇形をもたらします。これは特に高齢世代で認められ、それは現代的な治療を受けていないか、若いときに間違った治療法を受けていたために起こっています。

ここ60年間以上で、この出血性疾患を治療する多くの方法によって、私の人生はここで描かれているように医学的・社会的・経済的に重要な影響を受けてきました。

私が自分に、「何かおかしいところがある」と最初に気付いたのは、とても若いときでした。なぜなら、ひどい打撲や小さなすり傷、血尿のために、頻繁に病院や医師を訪れていたからです。私は、3歳のときに血尿症で初めて地方病院に入院したのをぼんやりと覚えています。治療は絶対安静でした。幸い、出血は止まりました。

打撲・筋肉内出血・血尿に関する治療は通常、冷湿布、ビタミンK錠、および安静でした。また、GP(開業医)は「Lotio Plumbi & Opio」として知られている暗灰色のローションを処方しました。このローションの有効成分は、鉛とアヘンでした。それは、打撲傷を表面に出すために腫れた部分に塗られました。いくつかの錠剤は痛みを抑えるために処方されました。ローションも錠剤もいずれも何の効果もありませんでした。1948年以前の治療は、あったとしてもほんのわずか、治療で癒されたり安らぎを得られたりはしませんでした。

幼児のときに、私は手首と肘のレントゲンのために何度も地方の簡易病院を紹介されました。私は骨折したことはなかったので、今となっては、当時の痛みと腫れが血友病に起因していたという可能性は非常に高いと言えます。10歳までにこれらの関節が限られた動きしかできなくなったことが、この考えを立証しています。幸い、私は地方の簡易病院には数回しか入院していません。病棟看護師から時々「赤ん坊のようなことをするのは止めなさい」と叱られる時を除いては、痛みが静まることはありませんでした。約50年後の今でも、まだ多くの医療関係者は、実際に打撲や腫れの証拠を見ない限り、出血症状と激しい痛みを関連づけることができないと思っています。私にはすぐ、地方病院への入院がどんなことをしても避けるべきことであるとわかりましたが、その年齢のときに、私の両親も私も、どの病院に送られるかを管理することはできませんでした。

1948年に、私は虫垂炎で地方病院に入院しましたが、幸い大きな医大付属病院に転院になりました。当時、重症な血友病患者が手術を受けて成功するには、医療スタッフの技能だけでなく、多くの運も必要としました。7パイントの血液の注入は失われた血液を取り替えるだけではなく、欠損凝固因子と私のその後の生存までも供給しました。

両親が私に、私が血友病にかかっていること、その家族歴があることを説明してくれたのはこの頃です。妊娠中に私の母は、遺伝の本質も自分が欠陥遺伝子を持っていることも分かっていなかったことは述べておかなければなりません。

虫垂切除後の数年間、私は医大付属病院に何度か入院しましたが、そこでは治療がずっと良かったので、私はラッキーでした。全血輸血は、めざましい回復と入院期間の短縮をもたらしました。しかしながら、それには欠点もありました。全血輸血は通常、手首か足首の「切開」によって行われました。ある場合において私は、以前の切開場所が癒えず感染したため、出血が止まらず、さらなる輸血のために再入院しなければなりませんでした。感染は日に2度の抗生物質の筋肉内注射で治療されました。これらの注射は筋肉にひどい打撲と出血を引き起こしました。

1940年代の終わりごろ、私はジフテリアと診断されて、すぐ地方の隔離病院に急送されることになってしまいました。このときばかりは、私の母が強く医師に反対して、私が接触伝染性の病気にさらされるかもしれない隔離病院に連れて行かれるのを拒否しました。医療医務官からのセカンドオピニオンがあるまで、私は家で厳しく隔離されることになりました。続いて私は、のどの打撲と診断されました。最初の診断の前に私は痛み止めに砕いた錠剤を飲もうとして、その残留物がのどに詰まっていました。打撲の赤さと錠剤の白い点が初期の診断を混乱させたかどうかは定かではありません。

数年後に、歯の充填のため下顎に「I Dブロック」注射をしたために、より深刻な出血がのどで起こりました。腫れは窒息を引き起こして、呼吸に影響しました。幸い、元同級生で医学の資格を持つ友人の手引きで、私は医大付属病院に入院することができました。

その他の忘れられない出来事は、1960年に、私が63パイントの血液と血漿を必要とする抜歯を行ったときでした。話題のトロンビンは当時、止血に役立つ製品でした。私はミルクプディングが好きではなかったので、2週間の間、朝食、夕食、お茶の時間、および夜食にアイスクリームを食べました。

1950年代の半ばまでには、私の右足首、両膝、および肘の関節は繰り返す関節血症で急速に悪化していました。およそ2年2カ月の間、これらの奇形を直そうと、整形外科病院で過ごしました。出血の治療法は、長期間に渡るギプス装着やトーマス副木・牽引による関節の矯正でした。そして矯正の過程を進めるために負荷をかけたり時々強く引っ張ったりしたので試練が増大しました。

当時私の右足を矯正する別の手段としては、蝶番でつながれた石膏で太ももとふくらはぎを包み込むことでした。それから2つのブラケットに金具が一つ取り付けられました。ブラケットはひざの上の蝶番から突き出ていました。金具は毎日短くされたので、関節はまっすぐに矯正されていきました。出血を伴って関節を強制的に真っすぐにするのは苦しい経験であって、それでもさらに出血するという結果に1度ならず陥りました。これらの治療はそれほどうまくいきませんでした。そして、数カ月経ってから、全身麻酔で脚を正しい位置に動かすことに決まりました。これをしている間、私の右ももは折れていました。また病院での長い滞在が続きました。

1958年頃に、右足首を数カ月ギプスで固定してから、くさびを使って足首を操作するという虚しい試みがなされました。

ペチジンの筋肉注射は、一時的に痛みから解放してくれましたが、再び大腿部や上腕部の筋肉に激しい打撲や出血を引き起こしました。血液や血漿によるそのような代替治療はありませんでした。血液因子濃縮はまだ開発されていませんでしたし、PCAは発明されていませんでした。

1950年代後半には、治療法が非常に改良された時代の始まりが感じられました。初めに、欠損凝固因子を置き換える試みにおいて、もどした乾燥血漿が注入されましたが、それほど効果はありませんでした。しかしその後、新鮮凍結血漿(FFP)が私の場合のような第IX因子欠損症の治療を扱うようになりました。 (クレオプレシピテートは第VIII因子欠損症の血友病患者に使用されました。)

1962年に、私は左ひざに深刻な関節血症を患いました。かなりの量のFFPにもかかわらず、出血は止まりませんでした。しかし、私が次に移されたイギリスの大きな血友病センターで第IX因子濃縮が開発されていました。ここで、私は整形外科の著名な教授の診察を受けました。彼は、私のひざを手術すると言い、同時に右の内反足をどうにかしてほしいかと尋ねました。入院時、私はカリパス/ブレースを必要としてもしょうがないほど曲がった左足、重度の奇形のある右足と右ひざをしていたということは忘れてはいけません。学校に通っていた頃の、苦痛でやっかいなこれらの不自由な関節によって、私は途中でやむを得ず学校をやめました。手術室では、「あなたはこの病院から自分で歩いて退院するでしょう。」と、教授が自信満々に言いました。

血友病科のサポートと彼のすばらしい外科手術のおかげで、私は38年間以上続けて働くことが出来ましたし、同時に高等教育機関での勉強を再開することができました。

1963年頃に、同様の大規模な血友病科が私の地域で始まり、その当時最もよく知られている治療で血友病患者を扱うだけではなく、すべての患者に個々の利益を考えた治療を行う医長によって機能が向上しました。治療はFFPを使った方法が続けられ、患者は出血したら直ちに病院に通うことが奨励されました。私にとって、昼間勤務してから、夜泊まりがけで4パイントの血漿を受けて、次の朝早々働いているのは珍しくはありませんでした。コンサルタントは、私が仕事に戻って通常の業務を続けられるよう、朝とても早くに退院の許可を出すために病棟に来てくれました。

1972年は、今日のような血友病専門科の始まりでした。血液因子濃縮の導入、血液学あるいは血友病を専門分野とする医師/コンサルタントの下での専門科、血友病患者の出血の問題のみならず、個人的な問題も理解してくれる献身的なスタッフ。新しい濃縮による治療は、私たち患者に新鮮で素晴らしい世界を開いてくれました。在宅治療は、自立とQOL(生活の質)の改善をもたらしました。

最近約37年間の治療法は欠損因子の置き換えでした。これは、医師、血友病治療の訓練を受けた看護師、両親、妻または患者自身が静脈注射によって行うものです。定期的な予防(出血を防ぐための欠損因子の交換)は、ほとんどの患者にとって、教育や仕事などの生活にあまり影響を与えないで普通に近い人生を送るのを可能にします。

しかし残念ながら、治療の発展と改良された生活の質は、血友病患者にとって恐るべき問題をもたらしました。HIVやC型肝炎ウイルスに感染している血液から血液因子の多くが生産されていたのです。1,246人の血友病患者がHIVに感染し、そのうち800人以上が最終的に亡くなりました。血液製剤を受けたことがある、あるいは受け続けている患者にとって、ウイルスが特定されるのを待つのはとても不安な期間でした。ある人は、自分が感染しているかどうかも、妻やパートナーに感染を移していないかかどうかもわかりませんでした。多くが、感染していなかったかもしれないのに、職場や学校で避けられたり村八分にされたりしました。幸い、私はそのようなことは経験しませんでしたし、HIVにもかかりませんでした。

HIVウイルスに続いて、4,000人以上の血友病患者が、汚染された血液製剤からC型肝炎ウイルスに感染しました。また、1990年代後半までには、後に変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)で亡くなったドナーからの血液で生産された血液製剤を受けた結果、vCJDにさらされた血友病患者もいました。これらのウイルスに関する治療は、非常に患者を弱らせる、生きた心地のしないようなもので、うまくいっているとはいえないものでした。これらのウイルスが血友病患者やその家族に与える影響については、「汚染された血液と血液製剤のアーチャー独立公的調査」において、血友病患者によって語られた証拠の聞き取り文書の中に見ることができます。それらの血友病患者に関連した経験に比べれば、私の話は大したことのないように聞こえます。http://www.archercbbp.com/hearing.php/

2002年から、私は何度も手術や侵襲的治療を必要とする病気にかかりました。すなわち、腎結石、膝置換、さらに胆嚢摘出、および2度の腹部手術を受けました。

2004年に、私は冠動脈疾患と診断されました。病気の範囲を確認する血管造影図のリスクに加えて、血管形成手術やバイパス手術のようなその後の治療は、ヘパリンや、アスピリンやクロピドグレルのような抗血小板薬を使用する必要性のためにますます悪化しました‐これらは通常、血友病患者には無縁のものです。代替手段としては投薬治療でしたが、疾患自体は診断が確定しておらず、その重症度も知られていませんでした。選択は私に任されました。そして、私は4か所の動脈狭窄を示す血管造影図を選びました。血管造影図に従って、私は当時、冠動脈に4つのステントを挿入するという血管形成手術を受けた世界で唯一の、第Ⅳ因子1%未満の血友病患者でした。冠動脈ケアや血友病科による支援や治療は並はずれたものでした。

ところで以前は、極端なリスクなしには、これらの外科的介入は不可能だったでしょうし、冠動脈問題に対処する外科的治療など問題外だったでしょう。その上、NHSがなかったので、費用はひどく高かったでしょう。

血友病を患うということは、特に組み換え因子を使用する近代の治療以前だと、その人の人生にかなりの影響力がありました。長期間学校へ行けない、働けない。既に述べたように、私は入院患者として病院で人生の5年以上を過ごし、学校を多く休みました。非常に頻繁にあった出血症状にもかかわらず、私は、グラマー・スクールでかなり良い教育を受け、38年間ほとんど仕事を休まずに、なんとか続けることができました。私が仕事によく出ることができたのは、病院の血友病科から受けたすばらしい医療と現在の治療体系のおかげです。私の人生における浮き沈みは極端です。いくつかの深刻な病気にもかかわらず、この年まで生きていられたのは明らかに最も大きな成果です。しかしながら、思い浮かぶ「低調期」の1つは1962年頃で、その頃私は歩くことができず、学校は修了し、雇用の望みはありませんでした。2つの「好調期」は1962年に行われたすばらしい整形外科手術の後に歩く能力を取り戻したということと、冠状動脈の問題の後に、62歳で1万2800フィート以上の高さがあるモンブランに登ることができたということです。

私はNHSの下で、特に若いうちにいくつかの非常に悪い経験をしました。しかしそれは放置されたためではなく、主に今日では推奨されないであろう治療方法や知識の不足のためでした。私はNHSの下ですばらしい治療を受けました。私が近年患った病気のいくつかは、年金受給資格年齢まで生きることができた代償であり、血友病には関連しません。

遺伝子疾患が家族歴の中に存在すると分かったとき、子供を持つことを考えるためには、その疾患についての十分な知識が不可欠です。私が生まれたとき、私の平均寿命は苦しみの7年未満とされたので、私は生まれなければ良かったと思ったことが何度もありました。人は、鎮痛剤も効かずどんな治療処置もなく、毎晩毎晩継続的な痛みで苦しんでいるときは、特にそう思うものです。3週間学校で4週間病院のベッドの上、というのが標準でした。当時、このような苦しみを伴うQOLについては知られていなくて、他の多くの遺伝子疾患と同じように非常な緊張を家族にもたらしました。私は個人的に、子どもがQOLのない遺伝性疾患を持つことになると知っていながら家族を持つことを追い求めるのは身勝手であると感じます。生まれる前の子供にはその子の考えを聞くことはできません。私は、患者として長年の経験があり、意見を述べることができます。このような視点は誰もが持っているものではありません。

では、妻と私はなぜ子供を持つことにしたのでしょう。十分な情報を得たカウンセリングの後で、私たちは望むなら子供を持つようにアドバイスされました。その理由は:
a) 男の子だったら欠陥遺伝子とは無縁だから、b) 欠陥遺伝子を持つ女の子なら、男の胎児を中絶するという選択肢もあるから、c) 彼らが子供をもつ頃までには、胎児が保因者であるかどうかを確定することが可能になるかもしれないからです。また、ここ30年間で治療に関する開発のために、若い血友病患者の少年たちは私たちのような古い世代ほど苦しんではいないようです。

血友病にかかっていると、かなりの影響力があなたの家族と社会生活にかかってくるでしょう。家族として計画していることを計画したとおりの時期に実行することができません。子供を海辺に連れて行くと約束したのに、その日の朝、歩くことができません。痛みが激しいときに我慢しようとすると、それは家族のあらゆる側面において忍耐を必要とします。何かをするとき、肉体的な能力ではなく、精神的な能力について悔しい思いをします。能力や病気を通して働くことができない人には、自活したり家族を養ったりするという負担が加わります。もちろん、これは他の多くの疾患にも当てはまります。1979年、HIVとHCV問題が取り沙汰される前に、私は幸いにも、家を買うためのローンとローン保証の保険に入ることができました。私はその後、血友病患者が生命保険やローン保証を受けるのは不可能だということを知りました。保険会社は、すべての血友病患者がこれらのウイルスにさらされているか、その検査を受けていると考えたからです。私は、これらのウイルスにさらされたかもしれない他の血友病患者にも同様の問題が起こると思います。旅行保険に入るのは可能ですが、たいていかなりの割増料金や超過料金が課されます。これらの意見は病気自体には関連していませんが、それでも、遺伝子疾患がふつうの人々が当たり前のことと思う日常にどう影響を与えるかを示しています。

人生を通じての私の姿勢はこうです-「もし朝目覚めて、歩くことができたら、その日は良い日になるでしょう。もし目覚めて、痛みなしで歩くことができるなら、非常に良い日になるでしょう。」

私は、生きてしたいことの大部分を達成することができたので、とても幸運だったと思います、私の世代のほとんどの血友病患者にはできなかったこともできました。

追加情報および学習や教育のための練習問題:

どのようにしてこの話を専門的な実践と関連づけるか。

[このストーリーは“遺伝学における看護能力”(NCG)と関連づけられており、そこには7つの主要な声明が発表されています。看護師、助産師、保健師のための、この能力構想についてのさらに詳しい情報は以下まで:
http://www.geneticseducation.nhs.uk/learning/nursing.asp?id=16 ]

リチャードは、子供が遺伝子疾患を患うであろうことが分かっていながら子供を持とうとする親は身勝手だという彼の考えを示しています。彼は「患者」としての長年の経験に基づいてこの意見を述べています。リチャードと彼の妻は、子供を生むことを決める前にカウンセリングを探しました。そのカウンセリングの話し合いについての詳細は明らかにされませんでしたが、そのカウンセラーが、すべてのクライアントが詳細な情報を得た上での決断を自発的にする権利を守った(NCG 3)のは明らかです。

考察点

リチャードが1940年代から1960年代まで耐え続けた間違ったケア、そしてその後改善されたケアについての詳細な説明は、医学の知識がいかに進歩したかを示しています。リチャードは、鉛とアヘンのローション湿布を打撲傷につけられることから始まって、世界の最先端の心臓外科手術を受けることになりました。最初の頃、彼と彼の両親はどんな治療を受けているかについてほとんど言うことはありませんでした。ジフテリアと誤診された経緯を含む出来事は、明らかな例外です。リチャードが子供の頃に耐えた方法の多くは、良く言っても効果がなくて、悪く言えば有害であることが示されました。そして、研究によって新しい技法が生まれ、血友病患者は普通の生活に近い日常を送ることができるようになりました。あなた自身の実践について、患者のケアを改善した最も重要な研究革新は何でしょうか。実践が、盲目的にこれまでの慣例に従うのではなく、利用可能な最も良い根拠に基づく手順を取り入れて行われるようにするために、どんなメカニズムが整備されているでしょうか。あなたは自分の研究分野や実践分野で進行中の研究を意識していますか。あなたは患者のケアを改善するために示された新しい技法をどのようにして見つけますか。

あなたの答えを模範解答と比較するには、サイト内のストーリー・ツールボックスにある「考察点」の下のリンクへ行ってください。

練習問題

  1. 使用される技法と受けられるケアの標準が向上した一方、まだリチャードや他の血友病患者には問題があります。少なくとも3つの血液由来の疾患(C型肝炎、HIV、およびvCJD)の予期しない感染が、1,000人以上の患者の死、そしてもっと多くの感染可能性の不安を引き起こしました。あなただったら、検査結果を待っている人に対して、どんなサポートを提供することができますか。さらに、医原性感染をした人に対して、さらにどんなサポートを提供することができますか。
  2. リチャードの母と父は家庭の中では疾患に気づきませんでしたが、彼の母親は保因者でした。あなたは、家族歴を意識していない家族に対して、疾患が次の世代に引き継がれたということを知らない人に対して、どのような説明をしますか。

あなたの答えと模範解答を比較するには、サイト内のストーリー・ツールボックスにある「練習問題」の下のリンクへ行ってください。

考察のための引用

「両親が私に、私が血友病にかかっていること、その家族歴があることを説明してくれたのはこの頃(1948年)です。妊娠中に私の母は、遺伝の本質も自分が欠陥遺伝子を持っていることも分かっていなかったことは述べておかなければなりません。」

「わたしは、まだ多くの医療関係者は、実際に打撲や腫れの証拠を見ない限り、出血症状と激しい痛みを関連づけることができないと思っています。」

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