第2章 調査対象地の概要

      第1節 北九州市の地域概況



    1 北九州市と八幡と若松


今回の調査対象地域である北九州市八幡東区、西区、若松区の高齢者が生活している
地域環境を最初にみておきたい。

福岡県北九州市は、4大工業地帯の一つであり、西日本では有数な工業都市となって
いる。北九州は、地理的に関門海峡を挟んで本州の山口県下関(赤間ケ関)と接し、
いまでは関門海底トンネル、関門大橋により本州と結ばれ、文字通り本州から九州に
入る玄関口に位置する。北九州の都市としての発展は、北部九州の地理的位置の優位
性と八幡製鉄や筑豊炭坑を控えていたことも関連していた。北九州市は、明治以降、
鉄道網が全国に普及していく中で発展していく。つまり、明治20年代以降筑豊の石炭
産業の繁栄と共に、門司が石炭積み出しの港湾都市として発展する。明治23年には筑
豊興業鉄道株式会社が設立され、明治24年には直方・若松間の鉄道も開通した。当時
の門司の発展は、対岸の下関港を抜き、さらに九州内の福岡、長崎、大分、大牟田な
どの港の取引量をも減少させて、九州における基幹貿易港の位置を確保した。しかし、
鉄道の延長化が進む共に、独占してきた貿易量は失われていった。北九州の中でも貿
易港として栄えた門司の繁栄もやがて城下町として発展してきた小倉市の商業発展に
奪われていった。

(1) 北九州市の成立

 北九州市は、昭和38年(1963年)2月10日に生まれた世界的にも珍しい都市合併によ
る都市である。合併時北九州市は、神戸以西の西日本の地域で初めて出現した100万人
以上の都市であった。「100万都市北九州市」は、都市の新しい発展の可能性を予想さ
せた。折しも、高度経済成長期に入った池田内閣の末期で、今と違い北九州の基幹産業
といえる鉄鋼がまだ繁栄しており、八幡製鉄所、住友金属などの製鉄所、関連産業、そ
して化学工業等が、企業として合理化を進めつつも、まだ北九州の地に設備投資をし、
従業員も増加傾向にあり、いってみれば北九州市の成立は産業都市の終末期にあったの
である。
 北九州市の場合、門司市、小倉市、八幡市、戸畑市、若松市の5市合併によってでき
たが、決して5市の全住民が一丸となって推進したわけではない。何故なら、5市の都
市としての性格はまちまちであったからである。たとえば、小倉市は城下町として発
展してきたし、門司市は、港湾都市であるし、八幡市は、八幡製鉄所をかかえる工業
都市であるし、若松市は、古くからの港町で、石炭の積出港として発展してきた港湾
都市である。戸畑市は、小倉、八幡、若松に挟まれ、元は漁業町であるが、安川家の
明治専門学校設置や化学工業の立地等によって工業化され、5市の中一番新しい都市
(工業都市)として発展した都市といえる。合併当初の人口は小倉市と八幡市の人口
が他の3市を圧していた。従って、門司市、若松市、戸畑市の住民の中にはかなり反対
があったという。例えば「5市といっても旧5市の住民意識があって、北九州市民とい
う意識が育たない」、「小倉に人口が集中して、周辺部は発展しない」などといった
反対意見がそのときはみられたのである。

(2) 製鉄の町八幡と港町若松

 ところで、昭和11年に刊行された『八幡市史』の巻頭には「八幡市は新興の都市な
り。工業の都市なり。率直に言えば、製鉄所の為に興りたる都市なり」と記されてい
る。ここからも明らかなように八幡の町は、製鉄業の発達によって発展してきた。実
際、八幡に製鉄業が立地しなければ、今日ほどの大きな都市になることはなかったで
あろう。
 筑前の国の遠賀郡に位置した八幡は、明治22年の合併で新名称の行政村として出発
した。「八幡の名称は、明治22年町村制実施の際、尾倉、大蔵、枝光の三村を合併し
て、始て新村名とせしより始まる。・・現今尾倉村、大蔵村、枝光村ハ産神八幡神社
ヲ祭祀セルヲ以テ、特ニ村名ニ選択セリ」と先に触れた『八幡市史』には記されてい
る。
 合併時の人口は、僅かに2,118人であったという。全くの寒村が都市として急速に
発展することになったのは明治30年に官営の製鉄所が開所されたことに由来する。
富国強兵策をとった明治国家は、工業化と国防のために、製鉄所の建設を急いだ。
広島、北部九州(門司、八幡)の3つの候補地の中から八幡の地に製鉄所が建設され
た背景には海軍の意向が強く働いたといわれ、また原料の一つである筑豊炭鉱の存在
も大きく関係していたといわれる。最初、海軍省が調査して、製鉄所の設立予算とし
て、起業金175万円、営業資金50万円、計125万を援助、それが明治25年の農商務省を
して製鉄所建設に乗り出すきっかけを与えたと言われる。もちろん、地元も当時の村
長芳賀種義をはじめとして、柴田嘉平、古野才蔵、大和生太郎、芳賀時次郎、大和荒
吉、安藤善太郎、芳賀善一郎、疋田光太郎など地元有力者が県や国に陳情攻勢をした
ことも無関係ではない。だが、八幡の地に置かれたのは、筑豊の存在と中国・朝鮮を
伺うことのできる玄界灘という立地が決定づける要因であった。明治30年に官営の製
鉄所が開所されることになったのである。しかし、近代的な製鉄所は、すぐには動か
なかった。4年後の明治34年(1901年)2月に初めて操業が開始される。その後の八幡
の発展は、発展の一途を辿っていく。明治33年八幡町となる。一方、幕藩体制期宿場
町として栄えていた黒崎村の方は、明治30年に鳴水、熊手、藤田、前田の4村を合併
して黒崎町となる。八幡町は、大正5年には企救郡の板櫃村槻田を八幡町に編入、黒
崎町の前田の一部も編入する。大正6年3月には、八幡町から八幡市となり、14年槻田
の全部を八幡市に編入した。昭和15年には黒崎町を編入した。
 他方の若松区の場合、洞海湾を挟んで八幡製鉄所の対岸にあり、早くから石炭を積み
出す港湾として発展してきた。若松は明治24年に町制を施行し、明治31年に修多羅を
編入し、さらに39年に石峰村と合併して、大正3年に市政を施行し、若松市となった。
石炭輸送が鉄道線に変わるまで洞海湾を望む若松港には木造船がびっしり並んで「林
立したる帆柱は、矢だに通さぬ心地して、千帆朝夕往来す」と指摘されるほどだった
いう。そうした繁栄も明治中期から大正期であって、若松の繁栄は対岸の工都の八幡
や戸畑などに奪われていく。戦後は洞海湾の対岸の八幡製鉄所や三菱化成、黒崎窯業
など企業に関連した工場が立地して発展してきた。近年は、二島地区が117の事業所
(平成4年事業所統計)を数え、北九州市一の地位を占める地域もみられるように、
発展の兆しが現れつつある。特に折尾から若松にかけて学園都市構想が北九州市によ
り打ち出されており、その余波を受けて、長く人口減少地域であった若松区は最近で
は北九州のなかでも人口増加地域になっている。

(3) 八幡と若松の人口

 いま少し八幡市と若松市の人口の推移と町の歴史をみておきたい。表−1にみられる
ように八幡町の人口の推移は、大正期に入って人口が飛躍的に増大していくことが
分かる。明治33年に町制を布いた八幡町のその時の世帯数は、1,700戸で、人口は6,
460人であったが、大正期になると、まず大正元年3万人台に突入、2年後のにはほぼ
1万5千人増加して4万6千人規模になり、その6年後の「第1回国勢調査」の実施された
大正9年には2倍強の10万1千人規模の都市となっている。その後、昭和元年には13万
人台、昭和5年には16万人台、昭和10年には20万人台に、昭和15年には26万人台にま
でなる。しかし、戦時中は減少していき、敗戦の年の昭和20年には戸数にして約1万7
千世帯、人口にして11万人の減少となっていた。職員、工員の徴兵、原料である鉄鉱
石の入荷不足、19年、20年には爆撃を受けて、減産体制を余儀なくされたことが、製
鉄所の従業員を少なくしていった理由である。戦後の新たな製鉄所の出発、発展の中
で八幡市の人口は増加に転じる。昭和25年には21万人に回復し、昭和30年には昭和15
年の26万人を超え、28万になる。4大工業都市の一つであった北部九州の工業地帯は、
その一番の中心であった八幡市は、八幡製鉄所の発展によって人口の増加が続く。昭
和40年には353,183人にまで増加した。しかし、5市合併を実現した頃から、人口の増
加は止まり、しだいに減少傾向に転じるようになる。
 合併後に八幡市が八幡区となったが、昭和49年には中央町を中心とした「八幡東区」
と黒崎を中心とした「八幡西区」に区域が変更される。昭和50年以降の人口の推移は、
東区の減少、西区の増加という形で推移してきたことがわかる。平成7年の八幡東区の
世帯数351,150戸、人口85,297人、それに対して西区は戸数96,806戸、人口254,645人
と、両区の人口差は、3倍近くになっている。
 他方、若松市の場合、大正9年に49,336人を数え、人口は、以後、急激に増加してい
く。昭和15年には88,901人までなった。敗戦時、人口減がみられるものの、昭和25
年には昭和15年の人口を超え、それ以降も人口は増加し、昭和35年には106,975人に
なった。つまり、若松の場合、昭和35年という高度経済成長の開始時期に人口の最盛
期を迎えるが、その後は人口減に陥る。その後は続き、昭和55年には8万台にまであ
るが、近年は郊外化の機運と共に、人口の増加が続いている。
 こうした人口の変化を人口動態(自然動態、社会動態)の動向からみておきたい。
表−2は、八幡区、八幡東区、八幡西区、若松区の人口動態を時系列にみたものである。
八幡区(及び八幡東区)は、昭和40年に社会減に入り、翌年持ち直したが、42年から
今日まで一貫して社会減が続いている。製鉄所の合理化の進んだ昭和40年代の減少は
ひどく、昭和44年には約9千人の減少がみられた。一方、自然動態では今日既に自然
減に入っているが、自然減自体は昭和60年に入ってから始まっている。つまり、社会
減の始まった昭和40年と自然減の始まった昭和60年との間には20年間の差がみられる。
八幡東区の場合、自然増社会減社会から自然減社会減社への移行期間が20年というタ
イムスパンがあったことになる。

    表−1 八幡市と若松市の人口と世帯数の推移

(備考)S,49年には、八幡区は、八幡東区と八幡西区に分離。

同じ旧八幡区である八幡西区の方は、長く人口増加をしてきただけに現在でも一貫して
自然増のパターンを維持している。ただ、昭和63年から社会減に突入しており、平成6
年の社会減はついに4桁の数になった。しかも同年は西区で人口動態の減少に転じた年
でもある。八幡西区の場合、都心人口の郊外化の動きで人口増をもたらしてきただけに、
今後人口減を食い止める要因が加わらない限り、人口減少は続いて行く可能性がある。

若松区の場合、自然動態では昭和48年時点で1,060人の自然増がみられたが、それ以後、
減少の一途をたどり、平成2年には自然減に突入している。しかし、平成6年には自然増
加に転じているので、近年は若い人口が増加しているのである。一方、社会動態では昭
和30年代後半から40年代にかけて散発的に社会減を招致したが、社会減型の社会に突
入したのは昭和61年からである。しかし、北九州の都市開発が小倉南区、八幡西区に
向かっていたものが、若松区の未開発地へと開発が移動してきたので平成4年以降社会
増加に転じ、最近では9万3千人に人口が増加しているのである。

    表−2  八幡市(東区・西区)と若松市(区)の人口動態の推移



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