6829107、753、083922611831、401、298973、1943731、433140041016、370461407798A、E128、23、etc.
私の存在を表すさまざまな数字です。サイバネーション社会は私の存在をかくも抽象的にしてしまいました。でも、こんな数字をどれだけ書き連ねたところで、私がどんな人間であるのか分からないでしょう。その数字が住居表示番号や郵便番号や電話番号であると分かれば、かなり私がどんな二元であるのか分かってきます。しかし、やはり私がどんな人間であるのか、まだまだ謎です。
小川全夫、オガワタケオ、オガワマサオ、オガワマタオ、オガワゼンオ、オガワカネオ、いろいろな宛名で私の所に郵便が届く。父S−母Mの長男、KとTの兄、Kの配偶者、W・C・Tの父、T・M・S・Yの小父、etc.
私の存在を表すさまざまな人名です。これならまだまだ私の存在をうまく表せそうです。でも本当の所の私の存在は謎であり続けます。研究室の諸君は自らのプロフィールを書いて編集するといいますが、表現すればするだけ謎めいてくるのではないでしょうか。控え室においてある雑記帳の署名なども大いに謎ですね。
さて、かくいう私の実体は、みんなにだけこっそりと教えるのですが、インベーダーなのです。ただ、その使命が何であったのか、忘れてしまったため、任務が遂行できないのです。(1981年.4月)
時折、食事の時に尾篭な話をする輩がいる。そんな連中に僕はどなりつけてやる。
「糞を喰う時に飯の話をするな!」
僕はあまり病気はしないのだが、山口に来てから多少緊張したのか、酒を飲み過ぎたのか、胃がやられた。久しくめくることのなかった辞書の字を見すぎて、目がやられた。宿舎が狭いので洋家具を追放し、座って勉強するので、痔がわるくなった。鳴呼、これぞ本当の胃・目・痔ダウン。
ひょうたんつぎと共に育ち、ニャロメが死して後は、メメクラゲに誘われて、今やブラックホールに吸い込まれつつある私でした。(1982年.4月)
歴史とか宇宙といった場合、私の人生なんてちっぽけなエピソードにしか過ぎない。けれどもそのエピソードにこだわり続けるのが人生というものである。私の社会心理学に対する想いは、エピソードを大切にしたいという気持ちから出ている。生きてるってことは、人に迷惑をかけてるってことだし、生きようってことは、その負目を果たそうって想うこと。そんな人生にとって、あまり大義名分だとか法則性だとか独自性とかは大したこととは思えない。私が「老い」、「近所づきあい」、「農」などといったことに関心を寄せているのは、きわめて身近なことについての精神(ものの感じ方、考え方、行動の仕方)が意外と現実味のないものになっていくことに対する点検をしたいからである。何も「老人問題」の専門家になろうと思っているわけではない。だから学生のパンフレットで、「老人問題が専門」だなんて書かれると大いに戸惑ってしまう。私のところで卒論を書こうという学生が、「ロック」、「ニックナック」、「CF」、「写真」、「映画」、「漫画」などのテーマをひっさげてきたからといって、私がそのような専門を修めている訳ではない。要は、それらの学生諸君にとって、リアルなのが、そうしたものをめぐる人と人の関係だということである。
昨年は「嘘の社会心理」に迫らんとして、「うその社会心理」(有斐閣)に先をこされた。今年は「贈与の社会心理」に迫ろうと思うが、どうなることやら。(1983年4月)
臨終が近づいた高杉晋作は、やっとの思いで筆と紙をとって、「おもしろきこともなき世をおもしろく」と書き、見舞いに来ていた野村望東尼に渡すと、彼女は「すみなすものは心なりけり」と後を書きしたためたという。晋作は、その時27歳。
客観的にどのような条件が与えられていようとも、それを乗り越えていこうとする人間の心の働きがある。晋作と望東尼のやりとりは、激動の時代に生きた人物の面目躍如というところである。
けれども晋作の妻マサにとってみれば、「おもしろくすみなすものは心なりけり」という言葉は、どんな感慨を呼び起こしたであろうか。16歳で結婚し、3カ月ばかりの新婚生活以外、席の温まる暇もないままに、夫の奔走を傍観し、22歳で死別し、78歳で死ぬまで、高杉晋作婦人として生きた一人の女性にとって、晋作と晋作の言動は一体何であったのだろうか。疑問は果てしなく広がる。
社会心理学は、このように人と人の間に営まれているエピソードに大いなる関心を寄せる。社会心理学を学ぼうとする人たちよ。身辺にあることがらに!(感嘆符)をつけてみよ。そこから発する?(疑問符)に答えんとするところに学問的営為がある。
(1984年4月)
私は「大の焼酎ファン」である。しかし、あの「イッキ、イッキ」が大きらいである。私は「乙類焼酎が大好き」である。けれども「カン酎ハイ、タコ酎ハイ」に憎悪の念を抱いている。私は「昭和軽薄体」をこよなく楽しむ。だが「快人21面相風コピー」には胸くそ悪い思いをしている。私はカラオケを歌うことにしている。にもかかわらず「点数の出るカラオケ」には気持ちをしぼませている。私は「社会心理学」を教えている。しかし「社会心理学とはなにか」を知ってからでないと聞かないという輩に、話すべきことはないと思っている。ネクラとネアカ、ビと金、A型・B型・O型・AB型、干支、星座、etc. 私はどんな「人間類型」もくだらないとは思わない。けれども「類型によってしか人を見ない」人々とつきあいたくはない。私は「妻と4人の子供」を心から愛している。だが、そういうことを「公言する私」を心から軽蔑している。私は「正しくあろう」と心がけている。しかし「正義」を押し付けたりはしない。私は「ふるさとづくり」に手をかしている。にもかかわらず「血と地の仲良し共同体」を恐れている。私は「ざわめき」が好きである。だが「爆音と喚声」には耳をふさぎたくなる。私は「社交上手(世間師)」になりたいと思う。しかし「色事師」にはなれないと思う。 (1985年4月)
私は今、「高齢化社会」についてあれこれ考えている。高齢化社会の問題は、決して老人の問題ではない。高齢化社会という問題設定は、特殊日本的な未来社会論として考えなければならない。その社会の一員として、おそらく私も諸君も様々な課題に直面しているはずである。
たとえば、高等学校卒業者数はこれから一時期(六年位)増加するが、その後は大幅に減少すると予測されている。戦後第一次ベビーブーム世代が18歳になった時、その人口は249万人にまで達していた。その時の高校卒業者が156万人。そして時代は下がり、いわゆる丙午世代になると18歳人口が156万人しかいない。今年からは、戦後第二次ベビーブーム世代が大学に入り始めたが、この18歳人口がピークに達するのが昭和67年で205万人、さらにその後は減少傾向に転じ、昭和
74年には18歳人口が今の丙午世代の水準より下の153万人に減少し、さらに減少傾向は続く。
そのような社会にあって、「大学」はどうなるのであろうか。中学、高校の教師の口はどうなるのであろうか。結婚はできるのだろうか。競争はどうなるのだろうか。この傾向を反転させる芽生えはあるのだろうか。その時代における人と人との付き合い方は一体どのようなものになるのだろうか。
この推論と解法の検討が、目下のところの私の課題である。 (1986年4月)
世の中には面白いことがいっぱいある。魚には感覚器官の面からみると、大きく2種類あるという。人間の感覚器に合わせていうと、視覚型の魚と味覚型の魚である。味覚型といっても、魚は人間と違って、味覚を感じる器官が、舌ではなくて腹部にあったりする。視覚型の魚は、泳ぎの早い魚に多い。味覚型の魚は、泳ぎの遅い底物の魚に多い。視覚型のアユなどを釣る時は疑似餌で、味覚型のコイなどを釣る時には、団子を使ったりするのはこのためである。
アナロジーというのであるが、人間にもこのような類型を当てはめてみると面白い。「目」を皿のように見開いて、好奇心一杯の行動をする人は視覚型人間、「舌」や「腹」で探り合う人は味覚型人間だといえるだろう。視覚型人間はその好奇心のために、ガセネタに釣られてしまう弱みがある。味覚型人間は、目先が利かないという弱みがある。さてあなたはどちらのタイプだろうbか。
僕はさしずめ視覚型の人間。美しいものを見るのは大好きだが、それを抱こうとまでは思わない。ピカリと光るものには食いつくが、よどみの中の腹芸には耐えきれない。その意味で、僕もまた人間関係にそれなりに悩んでいる。そんな悩みも研究する社会心理学という学問は、いくらでも難しく解説することはできるが、易しく僕なりにいえば、人間と人間の付き合いに影響を与えたり、付き合いの結果として展開していく問題とその解決について研究する学問である。日本では、どうしても家庭を中心にした付き合いや、学校や職場を中心にした付き合いに大きな関心が寄せられるが、そこでの問題はどちらかというと味覚型人間の好みにあうようである。だからいうではないか。「甘える」、「渋い奴」、「酸いも甘いもかみわける」、「味な事をする」、「せちがらい」などと。本来、このような表現は味覚に関する言葉である。しかし味音痴の人間が増えてきて、僕のような視覚的人間が増えてくると一体どうなるのであろうか。人間関係を表現する言葉もまた変化するのかもしれない。「あいつとあいつの関係は黒だ」、「おれは彼女にまっかっか」、「すっかりブルーな気分」、「まっさお」、「しらけ」などという言葉はその走りなのかもしれない。あなたは、どんな付き合いしている?
(1987年4月)
私うきうき、心どきどき、足がくがく、手ぶるぶる、口元ぴくぴく、目しばしば、耳がんがん、・・・・・・。これが国際電話を初めてかけた時の私の実感です。でもこんな表現は国際的に通用するかなあ。
日本語には、このような半言語と呼ばれる表現がまかり通っている。子供はこのような言葉を使う(使わされる?)。うまうま、わんわん、ちょちちょちあばば。日本の童謡は、このような表現に満ち溢れている。「雨雨降れ降れ母さんが、蛇の目で御迎え嬉しいな、ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん。」
現代の流行語の中にもまさにこのような半言語が大手を振ってまかり通っている。むちむち、るんるんなんてその最たるものである。それにしても、最近は私もこのような言葉を使いたくなる気分である。
「いらいら、ぷんぷん、ぴりぴり、かりかり、へとへと」を、「すかーっ」と、「はればれ、ゆたーっ、ぽかぽか、ぐっすり、すやすや」できれば、「だんだん、じわじわ、もりもり、りんりん、すくすく」なのだろうが、「のろのろ、うとうと、そろそろ、ふわふわ、なかなか、もたもた」なので、「だらだら、うろうろ」するばかり、そこで「さあさあ、いよいよ、どんどん」と「がみがみ」言われるので、「まあまあ、ぼちぼち」、よっこらしょ。
分かるかな?この気分。なんとなく分かるという人は偉い。ではどうか皆さんに分かるように説明してください。できるかな
私たちが当り前のように使っている言葉、分かっているように思っている言葉はみんな程度の違いがあるにしろ、どこかでかなりいい加減なのである。それでもある一定の人々の中では、なんとか意が通じている。例えば母親と赤ちゃんの会話は、まさにその極致である。きっと話し言葉の源は、「泣く」行為にある。赤ちゃんが何事も泣いて伝えようとすることが言語行為の始まりである。成長するに及んで、半言語から完全な言語まで使えるようになる。だが、感窮まった時は、嬉しくも悲しくも泣く。私は泣けばよいと思っている。その泣く行為をどこまで言語で洗練、彫琢できるかが教養というものだろう。だが半言語は退嬰である。
(1988年4月)
長い間、大学は受験生を選んできた。受験生は選ばれる側にあった。どの様な基準で選ぶかは、大学の自主的な判断に委ねられてきた。しかし、次第に基準の平準化が意図され、さらには受験機会の複数化などという論理がまかり通って、気がついてみると、大学は選ばれる側に立場が逆転していた。受験生が大学を選ぶのである。では、受験生はどのような基準で選ぶのであろうか。まずは「通れる大学」というミニマム水準が自分の学力との絡みで基準になるだろう。しかしその後、どのような基準が働くのであろうか。そして、その基準に照らして選択する時に必要な情報は本当に受験生に届いているのであろうか。これから大学はこのような世俗的な問題に振り回されることが多くなりそうである。
選択できるということは、いいことである。それは自由にかなっている。強制的な教育から解放され、自分の好みに合う大学の学部の学科の講座を選択するということを享受できるのは、自由であることに他ならない。しかし、どうもそれだけではどこか自由の危うさが付きまとうように思われる。なぜならば、自由の本当に純正な活動は、解放や選択ではなくて、創造にあると思うからである。大学や学部や学科や講座の伝統はあるものではなくて、つくられるものであろう。一人一人の人間の思いとその相互が織りなす関係の中に次の時代には伝統として輝くものが生まれるのである。身はあれども心ここにあらずという人々の寄せ集めであっては、なんらの伝統も生まれる機縁はなく、ついには講座も学科も学部も大学もついえてしまうのである。創造しようという熱意のみが、次の時代を確実にするエネルギーである。
山口大学人文学部人文学科社会心理学講座はどうなる。この世俗的な問いに対する答えは一つである。それは、わたしとあなたがここでなにを創造するのかによっている。それがここを選んだ者の責任である。
(1989年2月)
世は婆沙羅が流行する時代であった。アリストクラートの間では別業(別荘)を造って、そこにミニチュア版田舎山林を縮景する趣味が生まれ、その華美とその裏返し的な幽玄の思想が、時代の気分を象徴していた。国の内外の交流は盛んで、異国の文物が市場に出回り、人々は要するに世間は金次第とばかりに拝金主義に走っていた。金貸しは、アリストクラートから庶民にいたるまで、客にしていた。時折、借金凍結が行われたりするけれども、拝金主義はますます勢いを増すばかりであった。事情は国の財政についても同じであり、府庫は空っ欠であり、富人による支持によって、からくも体裁を整えているだけであった。地方の経営は、器量の仁、器用の仁に任せるべきだという論議も盛んであったが、それは都への貢納を求めるが故のことであった。都の世人は「唯世界は黄金にて社」(道無斎)とばかり長者の夢を追い求めていた。軽小短薄の経済は、歌舞音曲の輩を一躍スターに躍り上がらせていた。女性の活躍は著しく、政治を牛耳るまでになっていた。官人は、このような風潮のもとで、建前による秩序感覚が狂ってしまい、秩序形成の機縁として、カリスマ革命を求めていた。消費社会の美学は、刹那的時間をデザインする芸を生み出し、成熟から腐敗へ移行しようとしていた。だが、このような時代背景のもとで、いっさいの序列は無に帰してしまい、都から遠く離れたところから、新しいさまざまの勢力が勢いを持ち出してきた。・・・・・ と、このように述べてきたが、これは、いったい何時のことだと思うだろうか。実は、現代の日本を述べたものではない。室町時代を寸描したものである。まったくよく似た時代であったと思う。「利狂う徒」が狂奔する様が思い浮かばれるではないか。社会はこのようにどこかで似たような動きを経験している。さて、その当時の坊主(学生)は何をしていたのであろうか? (1989年4月)
台北市→松橋→奈良→熱海→奈良→西宮→神戸→鹿児島→ブラジル→鹿児島→福岡→奈良→東京→奈良→宮崎→山口→小郡→・・・・・→余市の墓
私が生まれてから死ぬまでの道程を、いまの段階で書き表せば上のようになる。浮草のような半生である。墓が北海道にあるということは、すでに4世代前から移動をしていたことを示している。よく人は「郷里はどちらですか?」と聞く。そこには何ら他意はないのであろうが、私には苦痛な問いだった時期がある。どこだと答えればいいのであろうか。「日本!」と威勢よく答えても、生まれが台湾なので、「?」である。「地球!」なんて答えようものなら、かえって異星人ではないかと疑われてしまう。現在ではこのような人間は決して稀ではない。むしろますます増える傾向にある。「郷里?それ何ですか?」と答えてみよう。今度は相手が困る番である。「生まれたところ?育ったところ?」。
このように人々が当然のこととして思い込んでいる世界があり、それを他者と共有しているのが日常社会である。けれども、この日常社会はきわめて不安定である。会話状況の中で少しばかり言葉にこだわるだけでこの日常社会の秩序は大きく崩れてしまう。私のような人間は絶えずこの緊張の上にあり、自分でそれを乗り越える知恵を探さなくてはならない。
ところが、世の中にはこれと全く対照的に、先祖代々一つ所に生活している人もいる。このような定住型の人生をおくっている人と移動型の人生をおくっている人とはどのような関係を取り結べるのであろうか。ほおって置くと、緊張関係から対立関係にまで進んでしまう恐れがある。地域社会にあっても、国際社会にあっても、この種の緊張関係はますます高まる一方である。私たちの日常的な秩序感覚は絶えず問われ続けているのである。私は、この緊張関係を「虫」的人間と「花」的人間の関係として捉え直そうと思っている。虫は花から蜜をもらい、花は虫から花粉を交配してもらう。このように考えれば、緊張関係もむしろ生産的な意味をもつだろう。物事、このように考え方次第である。
(1990年4月)
私は、いま1周遅れのトップランナーの気分である。
入学生のほとんどが法律・経済を希望するのに、人気のなかった社会学を希望し、多くの学生が卒業を急ぐのを見送って、移民の追跡調査をするためにブラジルに行ったり、卒業生が産業界に飛び出していくのを見送って、大学院に入ったり、教員活動に就こうとする学友を見送って、ビジネス社会で働いたり、都市が脚光を浴びる時代に農山村を歩き回り、若者文化を謳歌する世間を背にして、高齢化社会を研究したり、象牙の塔にたてこもろうとする学者にはそれを任して、マスコミの中で語る時間を多く持ってきた。いつも少しばかりズレていた。
それは、決して誉められることではないどころか、これまでさんざんお叱りを受けてきた。ある民放のパーソナリティを担当した時も、わざわざある筋から、それはなかったことにしてくれといわれたりもした。
私は何もへそまがりなことをしようと考えているのではない。たまたま出番が残されていて、私がはまり込んでしまったという例が多いのだが、ともかくもそれはそれなりにいろいろと学び続けている。
ところが、最近、私のやってきたことが、いろいろと社会の正統を任ずる人々の活動と同調する時代になってきた。マイペースでやってきたことが、ぐるっと1周先に走ってきた先頭集団の中に巻き込まれている感じなのである。その早いペースに巻き込まれて、少々私は調子を崩している。
高齢化に関する種々の委員会。農山村の振興に関する調査。さまざまな社会時評。いろんな場面に引きずり込まれることが多くなって戸惑っている。ついにはあの学外での活動を蛇蠍のごとく嫌ったはずの文部省が、研究者がどれだけ社会活動をしているのかについて調査を始め、大学評価の基準にしようというのだから、世の中変わるものである。どうせ、このようなことは、また時代とともに変わっていくのであろうから、あまり真面目に対応するのも馬鹿らしい。けれどもこのような風潮は、「皿の上の豆」みたいに、少し傾くと音をたててこぼれてしまう危うさをはらんでいる。私はむしろ皿にへばりつく納豆でありたい。
社会学や社会心理学を学ぶ諸君に私はいいたい。君達の時代は刻一刻と変わっている。いや正確にいえば、君達も変えているのである。(1991年4月)
私は昨年海外に出かける機会を得て、アメリカ、ドイツ、フランス、韓国と旅行した。旅というのは多くの人が語っているように、自分自身の再発見をもたらすものである。私は何も知らなかったのだということの再認識は、霧に包まれた山の崖を上ってるときには気がつかなかったが、霧が晴れて、あらためて下界を見おろすと、自分の立っている危うげな足場が分かって立ちすくんでしまう感じとでも形容しようか。
私が地面に立つ時に必要な身体を支える面積はわずかな足の裏の面積で事足れる。それなのに高い塔の上にそれだけの面積があったからといって、曲芸師でもない私が立てるわけはない。なぜなのだろうか。私の身体を支えていた足の下の面積以外の地面は無用にみえるが、高い塔の上に立てないことを知った人間にとっては、無用どころの話ではない。私の歩みと立脚には、霧も足の裏の面積以上の地面も必要不可欠である。
私はさらに高くもう一歩を踏み出そうと思っている。そのためにはその高さに目をくらまされないような広がりが必要になっている。その広がりを構成するのは友人であり、家族であり、そして諸君みんなである。諸君が高く広く伸びていけば、私は難なく一歩を踏み出せる。しかし諸君が低く狭く縮まっていけば、私はまっさかさまに転落してしまうだろう。そのような事情は諸君一人一人に同じようにいえることである。現在を共に生きる者同士として、心しようではないか。もう所属や所有や所作で自らの存在を語ることをやめようではないか。
他者との絶えざる相互の交渉の中にしか現実はない。それはいつまでたっても不定型である。そのような現実の中で、束の間の確実性にしがみつくことなく、さりげなく、さわやかに、しなやかに、そしてしたたかに生きていくのは、「相手次第の可能性」といわれるContingency
をものにする精神の活性化しかあるまい。私たちは誰もが多元的な無知の世界に生きているという認識の中からこそ、次の一歩が踏み出されなければならない。(1992年4月)
いわゆる「学園都市」とは、なんと虚ろな空間なのだろう。夏休みや冬休みに大学へ通う度に、「市民なき都市は都市にあらず」という言葉が想い出されて仕方がなかった。九月に北海道大学で日本社会学会があったが、北海道大学のキャンパス自体が、市民の公園として親しまれているようで、家族連れが森蔭で団らんしている情景は何とも言い様のないほのぼのとした雰囲気をかもしだしていた。それに比べると、山口大学も例外ではないのだが、今、日本のあちこちで進められようとしている「学園都市」構想の非人間的な様相には目をおおいたくなるのである。
一体このささくれ立った感じはどこから生じているのか。どうも私には、「隔離」というメカニズムが曲者のように思える。形式合理的な効率を追求すると、同質的なもの同士をまとめて、他のものと隔離した方が、異質的なものが混在しているよりはよいということになるのかもしれない。だが、社会は異質なるものの間における様々な組合せの中から活力を生み出すものではないか。同質的なるものの集群化と隔離は、活力を低下させる働きをするように思えるのである。
遊民と寓民が施設の利用者として通り過ぎていく。施設の利用者の間には何等の連帯もない。・・・・。いまや山口大学にもそのような空洞化が生じ始めている。同窓会のみなさん。大学を人間化するために、一層の力を貸してください。(1981年5月)
世の中あげて情報化の時代。やれニュー・メディア、テレトピア、衛星放送、CATV、ビデオテックス、グリーン・サム計画などとかまびすしい。こんな言葉だけを聞いていると、現代の人間は、情報を食って生きているのではないかという錯覚にとらわれてしまう。
そして、わが大学とは、そんな時代にあって、なんと古めかしい所か!とあらためて驚いてしまう。既に、大学は古い情報の倉庫になっており、教官たちは、倉庫番になっているのではないかという妄想にとらわれる。後生大事に管理すべき情報を、行儀の悪い虫が蚕食し、あるいは折角の貴重な情報を惜しげもなく捨てていく。
だがよくよく観察してみると、商品カタログを見るだけで満足(食傷)している人間が、増えているだけのことかもしれない。実際には食べたこともないホヤのオタマジャクシについて、うん蓄を傾け、行ったこともないシャングリラのことを語るのが、情報化である。
情報化のハイウェー(光ファイバー幹線)を端末機器をオペレートしながら、スピードをあげて、目的を達成しようとする人間は、いつしか、そのことだけに情熱を燃やし、まるで暴走族のように情報社会を騒がすようになる。
そんな時代の動きから取り残されたようにたたずんでいた大学が、人びとのストレス解消の場として見直される日がやってくるかもしれない。大学に行き、大学を出たから、情報社会で情報を操る免許状がおりるわけではない。むしろ、情報化社会に疲れきった人々が、無用の用を楽しむ場所となり、古代遺跡を眺めて人為の空しさを感じるように、大学に座して、情報の空虚さを諦観するのであろう。(1985年5月)