以下は行った東ティモールスピーキングツアー'98の講演録です。表現及び文脈の一部におかしなところがありますが、大意をくみ取っていただければ幸せます。 なおインターネットへの掲載に当たって本人の承諾を事前にいただいています。 日時:1998年9月30日 話し手:イリジオ・コエーリオ・ダ・シルバさん 場所:山口カトリックセンター 主催:アムネスティ山口グループ ------------------------------------------------------------------------------ 東ティモール問題をよくおわかりの方もいらっしゃると思いますし、今回初めての方もいらっしゃると思います。私は東ティモールの問題はそんなに複雑な問題ではないと思います。今回私が話したいのは、一般的な問題ではなく、ただ、自分の目からみたそのときの政治の状態とか、自分が戦争の中で体験したことだけお話しようかなと思います。 その前に言っておきたいことがあります。私は1993年から95年まで名古屋にある南 山大学で日本語を勉強し年ましたけど、その後ポルトガルに帰って3年になりましたし、その3年でなかなな日本語を使う機会がありませんでしたので、たくさんのことを忘れてしまったし、聞き取りも悪くなりましたので、もし、ご質問がありましたら、英語の方がいいかな、と思いますけど、もしそうじゃない場合は簡単な日本語でなさってくだされば助かります。 ポルトガルには1974〜75年まではずっと独裁的な支配にありましてその時独裁政権に反対していた軍人たちが革命をしました。その革命が起こってから初めてポルトガルでは民主主義的な支配が現れてきました。そうすると政治的な問題がいろいろ顕れてきてそれを解決するのが難しくてそういう困難な問題が植民地にまで顕れてきました。アフリカのアンゴラ、モザンビークまたは東ティモールもそういう困難な影響をうけてしまいました。その時から植民地の人たちがその機会をつかまえて、植民者たちとことばの戦いが始まりました。戦争はそんなに長くはなく、植民地にいたポルトガル人は自分の国に帰って、つぎに植民地に顕れた政党間の闘いがはじまります。東ティモールの場合は5つの政党ができ、2つはとても小さい政党で東ティモールがまた君主国家に戻ってほしかった政党で、もうひとつは東ティモールがインドネシアと合併してほしかった政党で、もうひとつは東ティモールがポルトガルの属国であり続けてほしかった政党でもうひとつは国民の75%が支持した政党で東ティモールは独立すべきだと主張した政党です。2つの小さい政党は戦争なしで負けて、もうひとつポルトガルの属国でありつづけたいと主張した政党も戦争なしで負けて、最後は東ティモールが独立することを主張した政党とインドネシアへの併合を主張した政党との戦争になります。その結果独立を主張した政党が勝ち、1975年11月28日独立宣言をしました。その時アフリカにあったポルトガルの植民地だった国といっしょに独立宣言をしました。でも東ティモールはその他の植民地とは運命が違って、2週間もたたないうちにインドネシアに侵略されてしまいました。インドネシアはその時から今までよく政治のプロパガンダをしています。 どういうことかというと、東ティモールはずっと前からインドネシアに併合したかったというプロパガンダですね。 どうしてかというと、1949年第二次世界大戦の後に東インドネシア人が東ティモールに入って、その時ポルトガルに反対していた東ティモール人と友だちになって陰謀を企てました。でもその陰謀がすぐポルトガル政府にわかりましたので、その人たちを捕まえてインドネシア人は自分の国に追い返されて、東ティモール人たちはアフリカのアンゴラという植民地に送られました。だいたいそういう政治状況で東ティモールの問題が始まって今まで続いています。もう23年になりますけどまだまだいい方向には向いていません。 次は私がその戦争で体験したことをお話したいと思います。 インドネシアの侵略が起こったとき、私は東ティモールの西の方に住んでいました。 ハットウルグという小さい町で東ティモールで一番高い山の近くにありますけど、お父さんの仕事の関係でそこに住んでいました。もちろん最初はインドネシアの侵略は東ティモールの首都・ディリで起こりましたが、しかし、東ティモールの軍事力が弱かったので自分の国を守のが難しかったです。それでインドネシア軍がだんだん近づいてきて首都の近くにある町を侵略し、だんだん山の方に近づいてきました。いつ私の住んでいた町に来たかは覚えていませんが、その町を出なければならないといって2、3枚の服とか少しの食べ物をもって山の中へ逃げました。私の両親は、その戦争はそんなに長くならないと思っていたので、わずかな服や食べ物しか持っていきませんでした。 しかし、3、4日経っても戦争が終わらず、持ってきた食べ物もなくなってしまいましたので、次は東ティモールの山の中にある自然のくだものとか野菜を食べて生活していました。 ある日私が住んでいた町が攻撃されて、それを私たちは花火かなと思って喜んでみていましたけれど、私の両親は「それは、花火ではない。楽しいことではない。それは戦火だから逃げて下さい。」と言われて自分が隠れていたところへ帰りました。そこでもそんなに長く住んでいなくて次は一番高い山、アメラという山ですがそこのふもとに逃げました。そこもちょっとだけ住んでいてお父さんはちょっとフレテリンという政党のメンバーで独立したい政党ですね、そこにいましたので他の政党の人がお父さんのことを好きじゃないというか、その時にお父さんを殺したいといううわさがわたしの両親の耳に入ってきましたので、やはりそこから逃げなければならないと思いまして次は西からもっと東の方に行きました。東ティモールはそんなに大きくないけれど、西から東まで行くには1週間ちょっとかかりました。その時ちょうど雨季だったので、子供たちははだしで西から東まで歩いて行きました。雨に降られたりしながら東へ行きました。 途中でココナッツとか食べましたが、見つけることができないときは1日でも何も食べずに歩いて行きました。東に着いたとき、最初はお父さんの町オスという町に住んでいましたが、だんだんインドネシア軍が東の方にも入ってきていましたので最後は東の方にあるマテビアンという東ティモールで2番目に高い山に行きました。そこには東ティモールの各地から人が集まってきていました。普通の生活はもちろんできなくて、私自身は7才になっていたと思いますけれど勉強はできませんでした。2、3年かけて東の方に着いたんですね。そこはとても寒かったけど、その時どう感じていたかは覚えていません。勉強は同じところにずっと住むことができなかったので十分できませんでした。 毎日のように引越ししなければなりませんでした。そういう生活が1年余り続きました。78年頃にはどこでも住むことができなくなってきました。最後にはみんなで山の頂上に行きました。そこに着いたらその山はそんなに大きな山じゃなかったし、そこにみな集まっていたので状態がとても難しくなってきました。私の家族は先に山の頂上に着きましたのでそこには自然にできていたほら穴を利用して隠れていました。また、一番最後に着いた々は穴を掘ることができなかったので、木の下に隠れていたんですね。山の頂上では朝早くとか午後6、7時はとても暗かったり雲がすごく多くなってきたり隠れる場所を探すのも難しかったですね。そういう状態がインドネシア軍にはわかっていましたので、それを利用して爆撃をしはじめました。毎日2回朝早くと夜2回爆撃していました。私の家族は洞穴を見つけましたので私たちの家族には何も起こらなかったけれど木の下に隠れていた人たちは、もし、爆撃されていたら何人死ぬか、それは確認できないですね。3ヶ月はちょっとそこには長かったです。その時にたくさんの人が死にました。お父さんは看護士でお母さんはずっとポルトガル植民地時代はお父さんの仕事を手伝っていたんで、けがをされた方を手当てしたり、私たちの近くに住んでいる人に薬をあげたりしていました。私たちの前に爆撃で殺された人がたくさんいました。時間が経つと死んだ人が腐敗して臭くなったり、とても混乱した状態でした。 次にまたインドネシア軍が入って来ました。もし東ティモール人がその山を出ないとか降伏しないとみんなそこで死んでしまいますからみんなを降伏させて男性たちとか軍人だけが山に残るということになりました。で、私たちは降伏することができました。その時はインドネシア軍はほとんど山のふもとまで来ていました。私たちが山の頂上にいたときはとても大変な状態でした。他の家族はどうなっていたか私は知りませんけど私の家族では山の頂上にいたとき、お母さんがちょっととうもろこしをやいて、つぶして、粉にして、パンにしてその粉とちょっとの蜂蜜を持っていきました。その洞穴にいたとき、ある真夜中私より上のお兄さんたちが麓まで行って水をもってきたりとかしていましたが、毎晩そういうことができるわけではないので、もし、できない場合は子供たちが飢えて死なないように蜂蜜をひとスプーンずつ子どもたちの口の中に入れてしのいでいました。私たちが降伏しに来たとき私たちの村から死んできた人の前にありましたし、とても悲劇的な状態でした。私はその時たぶん9才だったと思いますけれど、そんな気にしませんでしたけれど、今もしそのシーンをまた思い出すと足が震えます。 私たちが山の麓に着いたとき、男性と女性にそれぞれ別の所に集められて東ティモール軍人も別の所に集められてみんなを見張られるようにされていました。で、私たちの前でその男性たちとか東ティモール軍人たちは苦しめられたり、剣でゆっくりと殺されたりされました。刺してまだ死んでいなければまた刺して、そういうことを自分たちの前でしていました。そういうことが続いて結局私たちをまた町へ行かせたけれどその時は誰のおかげで町へ行けたかは覚えていませんけど、多分その時には東ティモールには国際赤十字が入っていました。私たちがある日ベシレラーレという町に来たとき、さらにまたインドネシア軍が入ってきました。家もなかったしテントもなかったから私たちと犬とか猫とかね、いっしょにベシレラーレの古いパン屋の蔵に入れられました。一週間くらい外にいて、先に降伏した私のいとこたちが私たちがその蔵にいることがわかりましたので迎えに来てくれました。その後私たちはいとこたちが住んでいた町まで行きました。でもどうしてそういうことができたのかというと、その時先に降伏していた私たちのいとこたちがインドネシア軍の軍人となってインドネシアのために働いていたからでした。それで私たちは彼らの町まで行き、そこに住みはじめました。でもお父さんは看護士なのでその時すぐ国際赤十字派遣団に雇ってもらい、東ティモールの首都ディリに行きました。行ったときは一番上のお兄さんは18才でしたが彼を連れてディリに行きました。80年6月10日、お父さんは国際赤十字の仕事で同じところにいることができなかったですね。あちこち行ったりして。 お兄さんは首都のディリにいる親戚のところにいて働きながら独立運動をしていました。で、80年、彼は19才だったと思いますが、逮捕されたといくことを国際赤十字が私たちに教えてくれました。お母さんはもしオスという町に住んだらお兄さんを探すのが大変なのでみんなディリにいてお兄さんを探そうということになり、私たちはディリに来ました。ディリに着いてお母さんはすぐお兄さんを探しましたけれど行方不明で殺されているか生きているのかわかりません。81年ごろお父さんは国際赤十字の仕事をやめてあるカトリック教会がやっていた小さな病院で働かせてもらいました。その時に働いて2回逮捕されました。1回目は私はよくおぼえていません。ただ、2回目の方は1983年12月4日でした。どうしてその日を覚えているかというと私が洗礼を受けた日なので今でも覚えています。その日お父さんは朝いつものように仕事に出かけました。8時頃インドネシア軍の軍人が家にやってきてお父さんはどこにいるかとお母さんに聞いておかあさんは「お父さんは仕事に出ています。」と答えると「また来る」と言い残し、帰りました。でもお父さんが逮捕されるということをお母さんはわかっていますのでお父さんのいるところに行きました。そこに着いたらインドネシア軍がすでに来ていてお父さんを車に乗せようとしていました。それを見てお母さんはすぐ教会の神父さんにお願いしてみんなでお父さんを探してもらいましたがみつからず、一週間後インドネシア軍の軍人がお父さんを家までつれてきました。その時お父さんはひとりで歩くこともできなかったし、自分の体もすごく青くなっていました。 そして時間をかけてよくなりました。お父さんを連れてきたとき、インドネシア軍の軍人は、お父さんにこういっていました。「今回はいいが、もし活動を続けたらポトンだ。」「ポトン」とはインドネシア語で日本語に訳せば首を切るという意味です。でもお父さんはずっと前から独立運動をしていましたので、いくらいわれても運動を止めませんでした。で、私の2番目のお兄さんも、大人になってそういう運動に入ったときそれがインドネシア軍にわかりましたので、逃げてインドネシアのバリで勉強をしていました。 でもそこも安全ではなかったので、インドネシアのジャカルタにいて勉強しながら独立運動をしていました。確か89年にまた逮捕されそうになってそれが先にわかりましたのでジャカルタにある日本大使館に逃げ込み亡命しようとしました。でも又釈放されてからずっとジャカルタで勉強してインドネシア人と結婚して、今2人の娘がいます。私も高校に入って独立運動をしていまして、91年のサンタクルスの虐殺のとき、私は高校2年生でデモにも参加していました。でも私には何も起こらなかったのでとても感謝しています。高校卒業後、東ティモールにある東ティモール大学で勉強しようかなと思いましたが、いつもお父さんやお兄さんたちはインドネシア軍に追跡されていましたので、あまり安心ができなかったんですね。それでジャカルタで勉強した方が安全だと思って92年にジャカルタに行きました。しかし、ジャカルタで勉強しているお兄さんはあまり勉強していなくて独立運動ばかりしていて、ジャカルタにいても安心できませんでした。 そういうことで私もあまり勉強できませんので、マカオにいた妹のところに行きました。インドネシアを出てマカオに行きました。しばらくそこにいて、ある日本人のカトリックのシスター中村さんと出会い、彼女の友達を通して93年に日本への留学ができました。 日本に私が来て、93年から95年12月まで日本語を勉強して日本の大学の留学生試験を 受けてみましたけれども、失敗しましてそれもひとつの理由ですけれども、他の理由もありまして私はポルトガルに帰らなければならなくなりました。ポルトガルにいて大学への入学準備もちょっとして、リスボン大学の日本語科ができましたので今はリスボン大学で政治学・国際関係論を勉強しながら、バイトもしながらいろいろな活動をしています。今年から私たちが活動を始めたのは、ジャカルタにあるオーストリア大使館に亡命しているアフェリーノ・ダ・シルバという活動家の救援活動をしています。彼の弟の家に昨年の9月に爆弾が爆発しました。彼の弟の他4人逮捕されて刑務所に収容されましたけれど、当局は最後まで裁判にかけたかったんですけれど証拠がないので、又、アムネスティ・インターナショナルとか国際赤十字とかその他のNGOが圧力をかけたんですね。証拠なしに東ティモールの青年たちを裁判にかけるのはだめだということで、7〜8ヶ月後、釈放されました。彼の弟は今、インドネシアのジャカルタにいますけれど、次にその青年たち、アベリーノという活動家の会員でありますので、彼が爆弾の爆発の責任をとらなければならないと言われました。又、彼は逮捕されようとしたんですけれど、彼の友達が教えてくれたから、彼はすぐ1台の車を借りて自分の奥さんと2人の娘と2人の友達といっしょに車でジャク島で安全に隠れることのできる場所をさがしましたが、結局見つけることができませんでしたので、今までも3、4年前までは大使館に亡命するとすぐインドネシア政府はポルトガルへ亡命させてくれたんですね。しかしアベリーノさんたちはすでに1年以上過ぎましたけれど、ポルトガルに行かせてもらえないでいます。どうしても彼を裁判にかけなければならないとインドネシア当局は思っています。私も法律を勉強していないからわかりませんけど、私の知る限りでは、彼はインドネシア人ではないから、又、彼が爆弾が爆発したことと関係があるかどうか証拠もありません。彼を裁判にかけるというのはわからないことだと思います。今私たちがどういう活動をしているかといえば、パンフレットを作って全国のポルトガルの大学生たちとか関心を持ってくださる人にあげたり、またはアムネスティ・インターナショナルとか国際赤十字とかその他のNGOとも連絡をとったりして彼がポルトガルに亡命できるように運動をしています。またEU加盟国ともインドネシアと交渉をしてアベリーノさんをポルトガルに行かせてくださいと要請していますが、インドネシア政府は、大使館を出たら逮捕する、そして好きなようにしますということなので、彼らはいまでもオーストリア大使館にいます。 私は、今回日本に来ていますが、目的のひとつは、日本人にアピールしてできたら東京にあるオーストリア大使館かまたはジャカルタにあるオーストリア大使館に彼と彼の家族を守ってくださるようはがきを出してくださればよいと思いますし、彼らをポルトガルに行かせて下さるよう圧力かけてくださることを望んでいることです。 もうひとつは日本は他の国といっしょにアメリカ、ドイツ、イギリス、フランスとか経済的政治的に強い国々といっしょにインドネシアに援助していますね。それはいいんです。ただ援助金をインドネシア人がいい生活を送れるように使ってあげるとかすればいいんですけれども、実際にはそういうことはしなくてインドネシア軍がますます強くなるために使われていて、それに私たちは反対しています。どうしてかというとインドネシアには資源がたくさんありますね。そのお金を資源のために使って国民がいい生活ができるようになればいいんではないかと思っていますが、実際にはそういう援助金の使われ方はされていません。いくらたくさん資源があってもインドネシアのジャカルタにいたら何百万人もの人々が生活するのにとても苦しく、自分の住む家もなくて橋の下に住んだりとかバスの中や電車の中で生活のためにスリを行う人とかがいっぱいいます。 どうしてそのお金をそういう人たちのために使わずに軍人にお金をかけるんですか。もうすぐ21世紀に入るから軍事力が強くなるために援助の必要はありません。これまではいろいろ戦争があり、国民は苦しんできたからこれからは、国民がいい生活ができるように資源を使えばいいんではないでしょうか。いまでもイギリスはインドネシアに武器を売っています。私たちは何をすればいいかを考えたいと思いますけれど、みなさんにしてほしいことは、日本政府にはっきりと、援助はしてもいいんですが、その援助は軍事力を強くするためにではなく、インドネシア国民のために使ってください、と要望してほしいと思います。そうでないとインドネシアは今は東ティモールを侵略していますが、将来はアジアの隣国を侵略するようになるのではないかと思っています。 今までの世界は40才、50才の人たちが私たちに作ってくれた世界ですね。まあ完璧な世界ではないけれどももっとずっと前の世界とはちがっていますね。でもこれからは私たちが次の世代のためにもっとよい世界をつくらねばなりません。そのためには私たちにはなにをすべきでしょうか、そのことを私は時々考えています。 今回私がお話したいことは以上です。 |