注:この講演録は、マリアさん本人の承諾を得てインターネット上に掲載しています。また、原文は英語で記載されており、和訳については大意をつかむ程度に考えていただきたく思います。
みなさま、本日は、私の祖国東ティモールについて話す機会を与えて下さってありがとうございます。 東ティモールについてお話する前に少し私自身のことについて話すことを許していただきたいと思います。
私は、マリア・ジョゼ・サンチェスといいます。東ティモールのディリで1959年4月7日に生まれ、1991年8月20日以来ポルトガルに住んでいます。
1975年8月、東ティモールで内線が始まりましたが、その時、高校に進学することを断念しました。とても勉学が続けられる状況ではなかったからです。
にもかかかわらず、1976年1月、これはインドネシアが東ティモールを侵略した後ですが、私は東ティモールで赤十字のボランティアとして働きました。赤十字での仕事は単に人々に食料とたばこを配るだけでした。
この赤十字の仕事の活動は影響は大変小さいものに過ぎませんでした。赤十字で働いていて思ったのは、この活動は人々を助けるのに十分ではなかったということです。なぜなら、食料とたばこの配給は一家族につきひとつしかなかったらです。山から降りてきた人たちには、何の配給がなかったのです。
一方、私にはディリの刑務所を訪問する機会がありました。しかし、刑務所内で友人や同僚と話すことはできませんでした。軍の警察によって、食料配給以外のことをしないよう厳しく見張られていたのです。
不幸にも、この活動さえも1978年1月に終わり、私の赤十字でのボランティアとしての仕事もなくなりました。
1978年10月、ディリの産業省で就職できたので、仕事をしながら、エクステルナート・サン・ジョゼというカトリックの高校で最終学年を続けることができました。
産業省の職員として、私は人材不に所属になり、1987年8月、産業経営学を学ぶためにジャカルタに派遣され、その時インドネシアからポルトガルに渡るためのパスポートを手に入れました。
なぜ、私がインドネシアを、そして東ティモールを出てきたのでしょう。東ティモール人女性として、私には私の祖国の現状が、そして人々の惨状が見にしみて分かります。人々は、植民地になることでもなく、どこかの一部になることでもなく、自由になることを願っています。
東ティモールの人々の最も基本的な権利が、インドネシアの軍隊によってふみにじられています。こんなにひとい様子を何もかも目にしていながら、人々を救うために何もできないでいるくらいなら、今は国外へ出て、独立のとき国の発展に尽くすことができる人になれるようポルトガルで備えていたいと思うのです。
東ティモールでは、認める訳にはいかない、かといってどうすることもできない現実があります。
山から降りてきた人たちには、インドネシア軍によってすぐに見張られます。彼らは疑われているので元々すんでいた所から遠く離れたところに住まわされます。
そういった場所は軍施設の近くに新しく作られたところで、山から降りてきた人たちが山で戦っている抵抗軍と接触できないようにしておくためのものです。
これに似たことですが、インドネシアから東ティモールへの政策的移住「トランス・マイグレーション」があります。移住者たちは東ティモールの土地に定住させられ、その結果、そこに住んでいた東ティモール人が土地を離れなくてはならならなくなるのです。
移住者たちは貿易や商業を牛耳っていますし、東ティモールの市場をも支配しています。
それから、東ティモールでは、行政は軍部が握っていますし、経済の主要部分もまた軍部に握られています。東ティモールに人々は雇用の機会もありません。
こういう訳で、国をでることにしたのです。
では、東ティモールについてお話ししましょう。
私の祖国東ティモールは、ティモール島の東に位置しています。ティモール島はスンダ諸島の小島の中で最大の島で、インドネシアとオーストラリアの間に位置します。
ティモール島は二つの部分に分かれていて、西の部分はインドネシア領、東にある東ティモールはポルトガルの植民地でした。私の祖国、東ティモールは、ティモール島の東の部分の他、西の部分の北部にあるオイクシ、ディリの北方にあるアタウロ島、そしてティモール島の東方にあるジャコからなっています。
1975年に東ティモールの人口は60万人でした。
1974年4月25日のポルトガルの独裁政権の崩壊によって、植民地の独立政策が力強く推し進められました。アフリカの他の植民地と同様に、東ティモールにも自決権行使のチャンスがやってきたのです。東ティモールの自決権については、法的で細かいプログラムがポルトガル政府によってなされました。当時東ティモールには三つの大政党と二つのその他の政党が結成されました。UDTはポルトガルとの関係維持を望んでいました。フレテリンは自由と独立を望み、アボディティはインドネシアの影響を強く受けていました。トラバリスタとコタは党員の少ない党でした。
不幸なことに、東ティモールの指導者たちは政治的な問題に熟達していませんでした。そこで、1975年が私の祖国東ティモールにとって運命の年になってしまうのです。
8月20日、UDTとフレテリンの間で内紛が起こります。フレテリンは人々の間で人気のある政党で、良い装備も持っていたので、3週間で東ティモール全土を掌握しいたのですが、一方、UDTは東ティモールから撤退して、西ティモールに避難したのです。
11月28日、フレテリンは一方的に東ティモールの独立を宣言します。そして12月7日インドネシア軍が侵略してくるのです。海からも陸からも攻撃が行われました。東ティモールは、虐殺と、投獄と、拷問と、死も待ち受けている新しい時代へと突入して行くのです。
1974年、ポルトガルが、その3世紀に渡る領有権を放棄し、東ティモールが独立に向けて歩み始めたとき、インドネシア外相アダム・マリクは、インドネシアは領土拡大を占領する気もなく、あらゆる国の独立の原則を尊重していた。しかし、驚くまでもなく、インドネシアは私の祖国を侵略し、その時東アジアで遠く孤立していた東ティモールでは、人々がインドネシア兵に制度的に痛めつけられているのです。
インドネシアの侵略以来21年間、残酷な処刑の民族皆殺し作戦を始めとして、逮捕、婦女暴行や同意なしの不妊処置、強制移住そして故意の作物の放棄などが行われ、処刑や飢えを通じて20万人以上の人々の命が奪われました。
インドネシア政府は東ティモール侵略を正当化するためと東ティモールにおける自らの立場を擁護するため、バリボ宣言を繰り返し援用しています。この宣言は、UDTとコタとトラバルヒスタが署名したものです。この三つの政党はインドネシアの影響を受けて、フレテリンを共産主義運動であると非難しました。そして、手を組み、反共運動と自称したのです。
このように、フレテリンの共産主義から地域の安全を守るという一方、ポルトガルから見捨てられ、戦争と飢えと貧困にさいなまれている東ティモールを救うという人道的理由がインドネシアの干渉の正当化に付け加えられました。国際社会が東ティモールの抵抗運動の存在を認めず、しばしば東ティモールを無視してきたにもかかわらず、東ティモールの人々は自由と国連が認めた自決権のための闘いをあきらめませんでした。
国連総会は、1970年10月24日の2625号決議で、威嚇もしくは武力の行使の結果取得したいかなる領土も適法とは認められないとしている。しかし、不幸なことにも、インドネシアは現在まで、東ティモールの占領を続けており、私の国の人々を押さえつけています。
1991年11月4日に予定されていたポルトガル議会の使節の12日間の訪問が世界へ開かれる窓になると東ティモールの人々は信じていました。そして、この使節団の訪問に自分たちの運命を賭けたのです。その他の海外からの訪問団は、1989年の教皇の訪問でさえも、非暴力のデモを引き起こすのですが、世界のマスコミにはほんの少し取り上げられただけでした。
東ティモールの人々をおとなしく従わせようと暴力を用いたにもかかわらず、ポルトガル議会の訪問団の日程が近づくにつれて、インドネシアは、訪問団の中のオーストラリア人記者がフレテリンの宣伝要員であるとして、その人の参加を拒否しました。情報の収集・提供の自由について民主主義に原則を掲げるポルトガルにとっては、この点に関するインドネシアの非協力的態度は到底容認できないものでした。10月24日、ポルトガルは訪問を延期しましたが、それはむしろ中止ともいうべきものでした。台風の季節になって、ほとんどの山間部が訪問不可能になるからです。
この延期の知らせは、東ティモールの人々には大変ショッキングなものとして伝わってきました。1991年10月26日、インドネシアの私服刑事が、ディリのモタエル教会へ入ってきて、そこに1年間以上隠れていたセバスチャン・ランジェル君を殺し、他の何人かの青年を捕まえたとき、人々はもう追いつめられた気持ちでした。長きにわたって暴力が加えれれてきたにも拘らず、青年たちは教会に忠誠を誓っています。東ティモールでは人々はほとんどどんなものでも教会のおかげでやっていけるのです。
インドネシア軍が、1975年12月7日、東ティモールを侵略して以来、東ティモールの人々にとっては、教会だけが唯一の非難場所となり、保護者となっています。司教さまや神父さまやシスターやその他の教会関係者は最初から人々を誠実に守る側にたち、そのせいで、カトリック教会はインドネシア軍からさまざまな迫害を受けてきました。
最初のティモール人司教、マルチーニョ・ダ・コスタ・ロペスは、インドネシアの執拗な要請によって、バチカンが東ティモールから退かせました。多くの聖職者がインドネシア軍に脅迫されています。
カトリックの学校であるエクステルナート・サン・ジョゼは、唯一今でもポルトガル語で教えている学校で、東ティモールのアイデンティティを残しています。それで、絶えずインドネシア軍が来るものですから、1992年、ディリの司教、カルロス・ベロはその学校の閉鎖を決定しました。
マリアさまの像などの神聖なものも破壊されましたし、聖体拝領のパンもイスラムの兵士たちによって冒涜されました。彼らは、ミサの途中、司祭からパンを受け取り足で踏みつけたのです。
セバスチャン君が殺された後、1991年11月12日のサンタ・クルーズ墓地の虐殺がフリーランスのジャーナリストによって映像が収められ、世界が東ティモールの惨劇を目撃することになる唯一の映像になるのです。それ以降、東ティモールの主張は世界中の連帯グループや世論、そしてインドネシア内部からさえも支持されるようになりました。
サンタ・クルーズの虐殺に対する最初の国際的な反応はその国のインドネシアとの関係によります。インドネシアは大産油国で海外からの高い投資指数を持っているので、多くの先進国と良い関係を持っています。
インドネシアは国際社会から避難されているにも拘らず、スハルト大統領は東ティモールを国内問題だと主張しています。このような状況のもとで、サンタ・クルーズ虐殺以降、人々は来る日も来る日もあらゆる種類のインドネシア兵の残虐な行為に苦しみ続けています。
そして、サンタ・クルーズ虐殺から1年がたった1992年11月20日東ティモールの抵抗軍の指導者、シャナナ・グスマオがインドネシア軍に逮捕されました。残虐な拷問の後、彼はテレビカメラの前で、東ティモールの人々と抵抗軍に向かって、インドネシアに降伏して、インドネシアとの併合を受け入れるよう呼びかけなければならなかったのです。国際社会は抗議の声を上げ、シャナナ・グスマオを釈放するようインドネシア政府に要請しました。それは、シャナナ・グスマオが、東ティモール抵抗運動の本当のシンボルだからです。しかし、何週間かして、インドネシア政府は、シャナナ・グスマオは政治犯ではなく、刑法犯であるとして釈放を拒否しました。
今見てきましたように、インドネシアは東ティモールにおいて人権を踏みにじっており、私の国の人々を押さえつけているのです。東ティモールからの知らせによると、現地の状況、人権状況に変化はないようです。インドネシア当局は人々を抑圧し続けており、若者や、誰でも、抵抗軍支持者の疑いをかけると逮捕し拷問しています。
にもかかわらず、東ティモールの人々は平和を、自分たちの地域での平和を熱望しています。自分たちの地域で自由の身になりたいのです。
今日世界は変わりました。軍事力よりも正義が重要になっています。だから、今や武器を置き、正当な話し合いを行わなければなりません。東ティモールも例外ではありません。今こそ、私の祖国の人々に平和と静けさが戻ってこなければならないときだと思います。
1996年の二人の東ティモール人、シメネス・ベロ司教とジョゼ・ラモス・ホルタのノーベル平和賞授賞は東ティモール紛争に対する正当で平和的な解決への二人の努力に対する国際社会の評価を代表するものです。東ティモール内部には抵抗軍がいまでも存在しますが、対話と協調に基づいた他の方法を探す必要があります。インドネシア軍は先進国からさまざまな軍需物資の供給を受けていますが、東ティモールの抵抗軍は何も持っていません。また、祖国東ティモールの平和と真の発展を達成するという困難で息の長い仕事のためにはビジョンと精神力を持つことが必要です。
東ティモールでの長く続いている戦争や困難は何も解決しません。それどころか、私たちは歴史や文化や宗教や習慣そして人として生きる権利を守っていかなくてはならないのです。東ティモールの社会に穏やかさをもたらさなければなりません。東ティモールの人々の生活をやさしいものにしなくてはなりません。それには政治犯の釈放が必要なのです。東ティモール内部の安定が必要です。
東ティモールをアジア的な目で再建すること、すなわち私たちの時代に挑戦することが急務です。東ティモール特有の習慣やアイデンティティを忘れることなく、東ティモールが置かれている地政学的、異文化共同体の中で協力し、その社会の一員となりならが、自分たちの場所を確保していくことこそ急務なのです。
私たちの決意は固く、その決意の固さと同様に将来に対しての希望に満ちています。私たちの住んでいる地理的位置からして広大なアジアの国の人たちと隣人として生きていかなければいけません。インドネシアにも、その他のアジアの国々にも良き隣人として手をさしのべ、私たちが東ティモールで平和と自由と独立を求めるのを手伝って欲しいと頼もうと思います。
この広いアジアの地域で先進工業国として知られている日本の皆さまに対しては、隣人として手をさしのべ、私たちが東ティモールで平和・自由・そして真の発展を達成できるよう助けて頂きたいとお願いするのです。皆様の努力と強い意志は必ずインドネシアに良い変化をもたらすだろうと思います。日本はインドネシアと良い関係にある先進国の一つでもあります。日本はインドネシアと経済的に良い関係にあります。別に、インドネシアから投資やその他の経済活動を引き揚げて下さるようお願いしているわけではありません。インドネシアに経済制裁を加えるようお願いしているわけでもありません。二ヶ国間の経済活動は他国の干渉しえない事柄であることは承知しております。それは一国の経済的独立に関ることですから。
しかしながら、私が日本の皆様にお願いしたいのは、東ティモール問題について国連事務総長の仲介で続いているポルトガルとの対話に出席し続けるようインドネシアを励ますことで私たちを助けて頂きたいということです。また、インドネシアに東ティモールの政治犯の釈放をするよう励ましをして頂きたいということです。更には、特に日本の若者や学生の方にお願いしたいのですが、インドネシアが東ティモールで人権を尊重するよう主張してほしいのです。何よりもお願いしたいのは、イギリスやドイツといった西洋の国がそうしているように経済的利益のために人権を犠牲にしないでいただきたいということです。
日本の皆様は、東ティモールの青年のための学習講座・職業訓練などのプログラムを通じて東ティモールの発展を推進することができます。これからNIESの仲間入りをして、恒久の平和・自由・独立を享受しようとする東ティモールにとって人的資源・新しいテクノロジーの獲得・そして投資が、三つの必要な要素です。どうか何かして下さい。
日本の皆様に何かして頂けるとすれば、私の考えでは次のようなことが可能ではないかと思います。
ベロ司教は誰よりも東ティモールのことを知っている人です。司教は人々と共に生活しています。東ティモールの中ならどこにでも行っていますから、東ティモールの人々の本当の代弁者になれる人です。
最後になりましたが、このスピーキング・ツアーを企画して、私を招待してくださったグループのスタッフの皆様にお礼を述べたいと思います。皆様ありがとうございました。東ティモールは皆様のお力を必要としています。
