| 韓国における女性の解放と労働運動
講師:李 総角(仁川労働研究院院長)さん
主催:アムネスティ山口、山口カトリック教会
日時:1999/10/17 Sun.
場所:山口カトリックセンター
参考資料
私は、この場で「女性」として、「労働者」として生きて来た日々を振り返って、本当の覚醒と解放が何なのか皆さんと共に考えたいと思います。このような出会いを通じて、「女性である私」と「女性である皆さん」が一つになれればいいと思います。
私が女性労働者として第一歩を踏み出したのが1966年1月8日で、その日に東一紡織に入社しました。明日から出勤せよという連絡を受けて、一晩中胸がどきどきして眠ることができませんでした。東一紡織は、簡単に入ることができない大きな職場でした。大きな工場に就職しお金を稼いで、貧しい家計を支えられるという自負心でただただ胸が膨らむ思いでした。
実際工場に入ってみると、幼い私の心は縮み上がってしまいました。一軒の家ほどもある恐ろしげな機械から吹き出す騒音、管理者達がひっきりなしに吹いてまわる笛の音は私の気を動転させました。寒い冬でも、息が詰まるほど熱気が吹きつけ、人々は夏服を着ていました。工場の中に飛んでいるわたぼこりで前がよく見えず、まぶたを見張って、目を大きく開けることができませんでした。いつのまにか汗でべとべとになった顔にはほこりがかびのようにくっつき、かゆくてたまりませんでした。作業服に綿埃が白く積もり、遠くから見るとそれこそムクムクした子犬が二本足で立っているような姿でした。
このような悪条件の下でもわき目もふらず、休むことなく動き続ける機械の一部となって働く姿を見ると、人の世のことではなく別の世に来たようでした。しかし、私も機械の前に立つや他の人と変わることなくコンジャンテギ(←訳注)になってしまいました。
私の運命、若い女工の置かれた状況は以下の通りでした。
@一日の労働時間は12時間(一日2交替で勤務)。
A食事時間はない(仕事を始める直前に自分で解決すること)。
B1400人余りの組合員のうち200人余りのみ男性、1200人余りが女性。
C脱衣室、シャワー室もない。
D肺結核、胃腸病、水虫、聴覚障害などの職業病は深刻である。
E作業を交替することになっている時間の30分前からあらかじめ仕事をし、交替した 後も定刻の30分後に退勤すること等々・・・。
そのほか、一月の中に休日は一日と決まっていましたが、実際は一瞬たりともありませんでした。また、当時工場で使う言葉は、ほとんど日本語だということで、ぐずぐずしていると管理者達に大きな声で怒鳴りつけられました。それがとても怖くて、全身が凍り付くような感じでした。しかし、つらいのと怖いのも暫しのこと。一日当たり70ウォンを稼ぐために機械のように働きました。
夢多き、最も学ばなければならない若者の体を工場の機械の前に差し出さなければならなかったくびきは、ひどい「貧しさ」と「女」だということでした。
空きっ腹を抱えて一日13〜14時間をわたぼこりの中で働いて工場から出てくると、お腹が減りすぎて絶えず痛くなり、めまいでくらくらしました。家にやっとの思いで辿りつき、倒れるようにして眠りました。そして、次の日の夜明けに再び工場に出ていきました。夜明けに出勤するときは、母が月を見て時間の見当をつけ起こしてくれました。腕時計を初めてはめてみたのが、75年に労働組合の総務を引き受け、組合事務室に常勤するよう発令が出た時でした。
娘として生まれ、息子ほどには教育も受けられず、家族の生計を支えているのにその努力を認めてもらえませんでした。全く同じ仕事をしていても男性より少ない賃金を受け取りました。
年も若く、きちんとした教育も受けていなかったので世の中を見る目は狭く、目の前のことしかわかりませんでした。貧しいのは両親のせいであり、運が悪かったのだ、会社の言うとおりに働き、お金は与えられるままに受け取るのが当たり前だと考えていました。当時、大部分の女工達は、「結婚」を一つの脱出口と思っていました。女性の結婚=退職は社会的慣習でもありましたが、うんざりするような工場の作業から逃れる他の道がなかったので、そのような幻想に浸り、みずからをなぐさめました。
こんな風に生きてみると、ついに「女性としての私」という人間に対する意味と重要性を自ら捨てるようになります。人生とこの世の中の主体ではない私は、弱くて運命に翻弄されながら生きるのが習慣になります。
このような私に変化−労働運動の始まり−が起こりました。
60年代半ばの東一紡織には、カトリック農民会の会員達が小さなサークルを率いて、6〜7つの部署で活発に活動中でした。また、68年には、都市産業宣教会の女性牧師の方が身分を隠して6ヶ月間労働者達と全く同じ労働をしながら、派手な教会の建物ではなくて地獄のような工場の中で人間関係を作りつつ、宣教活動を行いました。この方は、「機械のように働き、非人間的な待遇と性差別を受けているのは、神様の意志ではない。力がなく、何もわからないから抑圧と搾取を受けているのだ。労働者も人間らしく生きる権利がある。」教えました。この牧師様の助けを得て、都市産業宣教会を中心にした小サークルは1970年代初めから積極的に活動しました。
当時の小サークルの活動はお手元の表の通りです。
| 都市産業宣教会の小サークル |
カトリック労働青年会 |
活動時期:1970年代初めから
集まりの回数:週1回
場所:都市産業宣教会事務室(仁川・ファス洞所在)
初級−読書班、ギター班、登山班など趣味のサークル
中級−勤労基準法、労働法、歴史、社会問題など教養講座
参加人数:一つのサークルで7〜8人以上。
進行:牧師様及び実務者 |
活動時期:1960年代から
集まりの回数:週1回(昼か夜)
場所:聖堂
内容:教養講座と「観察−判断−実践」の3段階原則に従い共同生活を行うことを中心。(身の回りの問題解決のための実践が重要である。)
参加人数:一つのサークルで7〜8人以上。 |
1950年代の後半から60年代中ごろまで、カトリックとプロテスタントは労働運動に深い関心と支援を傾けてきました。最も代表的な例が、東一紡織の中の小サークル活性化です。これらの小サークルの目的は、自己の変化から出発して隣人−社会の変化まで進み、あらゆる人がキリストの愛の中で平和で平等な人生を生きるというところにありました。小サークルによる教育と活動、そして真実の人間愛は、貧しくて教育も受けられなかった労働者達を自らと社会に対して目覚めさせ、連帯感を生み、社会的経済的地位の向上の必要性を心に刻ませました。
最初工場に入った時、怖くて不安だった私に一人の先輩が親切にしてくれ、わからないことを優しく教えてくれました。その先輩を通じてカトリック労働青年会を知るようになり、小サークル活動に倦まず弛まず参加しました。特に、工場の引けた後に組合員の家に遊びに行き、寝食を共にしながら多くの話をし、心と考えを通い合わせました。
私のように小サークルによって変化した者達は、自分と同僚を変え得る創造力を持つようになりました。このような変化と努力は大きな力になり、1972年韓国最初の労働組合女性執行部の誕生として実を結びました。
東一紡織労働組合は1946年8月3日に結成され、長い歴史がありました。しかし、26年の長い年月の間、大多数が女性によって占められた事業場にも拘わらず、労働組合は男性達によって掌握されており、彼らは女性労働者の上に君臨していました。
根の深い御用男性労組執行部を追い出した東一紡織女性労働者達の勝利は、長い間の家父長的因習や制度と対決した闘争の結果でした。労働組合幹部の地位から追われた男性労働者達は、「金を稼いで早く嫁にでも行け、おまえ達に何がわかるのか」という「悪口」を浴びせました。さらに、労働組合活動に対して組織的な妨害を行いました。
それ以前の男性執行部は、毎月給料袋から組合費だけ天引きにして、どこでどのように使っているのか明らかにしませんでした。これに対して、女性執行部は組合の財務状況を毎月公開し、すべての組合員の目につく食堂と中央の廊下に掲示し、各部署の代議員を通して組合活動の詳細を知らせました。
支部長と総務は毎日午前と午後に必ず現場を回って、苦情や問題点を直接聞きました。こうして直接会って話を聞くことによって、日を追うごとに組合員の支持と信頼を深めていき、出・退勤時に組合事務室を訪ねて来て、問題点を話し、個人の悩みまで相談していく組合員まで出てきました。
特に組合員教育に力を傾け、組合員達は労働組合の主人は自分たちであることを悟っていきました。
このような強化された活動力と組織力、緻密に準備された闘争によって、組合員の労働条件改善と権利保障を多く勝ち獲りました。最初の女性執行部の任期3年の間に挙げた成果と発展は、男性執行部26年と比較するに足りませんでした。
いくつか例を挙げると、組合員の長い間の宿願だった食事時間の確保、月次・生理休暇の有給化、一日欠勤したときの4つ(月次、生理、週休、日当)賃金の控除制の廃止、男女賃金差別の廃止、脱衣室・シャワー場などの基礎施設の準備などです。これらすべてのことが男性執行部の下では不可能だったことです。
女性執行部に対する組合員達の高い支持によって、次の組合支部長選挙も女性支部長が100%当選するだろうといわれました。これに対し、会社側は不安を感じ始め、資本と国家権力、御用労組が野合し、本格的に労組潰しの策動を開始しました。
77年5月に新たに誕生した女性執行部が準備した代議員大会を、会社側は少数の男性組合員を使って潰しました。これに対し、組合は出・退勤時間の厳守、食事の時間をきちんと取ったりするなどの順法闘争を展開しましたが、7月24日に支部長と総務が警察署に連行されました。これを見て、それまで意識と団結力を高めた組合員達は籠城ストライキに突入しました。200人余りで始まったストライキが少しずつ増えていき、800〜900人に膨れ上がりました。とうとう、武装警官達が鎮圧のために工場の周りを幾重にも取り囲みました。組合員達は民主労組を守りたいという強い意志を持って、誰かが「服を脱げば、警察は捕まえに来れない」というや、皆が服を脱ぎ捨て裸で警察と対峙して闘いました。これが、いわゆる「裸体示威事件」です。会社の門の外では両親や兄弟達が鉢巻きをして、娘を支持する籠城を展開しました。気が遠くなるような蒸し暑さの中、電気や水を止められ、警察と揉み合うこと2泊3日、精根尽き果てて、一人、二人と倒れて行きながらも闘争歌を歌って正当性を訴えました。
「我らは労働者。
共に死に共に生きよう。
膝を屈して生き残るより、立ち上がって死ぬことを選ぶ。
我らは労働者。」
警察の暴力による鎮圧によって、見習い工のイ・スンオクは精神錯乱を起こし聖母病院に3ヶ月間入院し、同じく見習い工のイ・ドンヒは全身麻痺で1ヶ月入院しました。後にこの二人は、「私達は工場に入って日も浅く、なぜ闘わなければならないのかわからなかった。日頃先輩達がよくしてくれ、優しい先輩達が闘っているので、怖くて抜けたかったけれども、先輩達を裏切ることができず、一緒にやった。」と語りました。
裸体示威によって支部長と総務が釈放され、労働組合を守ることができました。しかし、会社は破壊策動の手を緩めませんでした。5分遅刻すると欠勤処理をされる、トイレに行く時は尾行監視される、あるいは不当な配置転換を強いられる、夜勤の時居眠りをしたといって始末書を書かされる、組合事務室の監視を受けるなど組合活動と組合員を締め付けました。このような会社の弾圧にあって、労働組合は倦まず弛まず闘いました。
78年2月18日の朝6時。新しい支部長を選ぶため投票箱が準備されている組合事務室のドアの前には、会社に動員された男性組合員が革手袋をしておけに糞尿を汲んでいました。彼らは、前の日会社から提供された酒で酔っぱらっていました。彼らは、代議員と女性組合員の顔に糞尿を浴びせ、逃げれば最後まで追いかけていき肥桶を逆さにして振り注ぎました。組合が保護を要請したので、そこには警察が来ていましたが傍観していました。また、上級労組から派遣された労組幹部と会社の管理者達が出てきて指揮していました。糞尿を浴びせられ、民主労組を奪われたまま街頭に追い出されましたが、私達はそのまま後退しませんでした。
78年3月10日。3万人の労働者が集まった労働節の式典に75人が垂れ幕を隠し持ってこっそり入り込みました。国務総理の挨拶の直後、隠し持ってきた垂れ幕を取り出し広げて、東一紡織で起こっている労働組合弾圧の不当性を政府と全国の労働者に声をからして暴露しました。
−東一紡織問題を解決せよ!
−労働三権を保障せよ!
−どんなに貧しいといっても、糞尿を食らって生きては行かない。
この場面は2分間生放送され、式典は修羅場と化しました。警察は私達の髪の毛をわしづかみにし、先頭警察のバスに乗せた後軍靴で蹴り、理由なく殴りつけたので、私達は気絶しました。しかし、その中の誰も私達の闘争を止めることができませんでした。あらゆる暴力と脅迫にも屈せず、民主労組を死守しようという意志と怒りはますます熱くなっていきました。
3月26日朝5時。復活節の礼拝の時。17個のプロテスタント教会、50万人余りが参加した席でした。一人の牧師の祈祷中、解雇された6人が演壇に上がってマイクをつかんで東一紡織労働組合弾圧の不当性を神様に訴えました。私達の訴えが生放送され、全国の信徒に伝えられました。しかし、教会は私達を保護してくれませんでした。私達は、集会示威取締法違反で全員拘束されましたが、この6人皆がクリスチャンでした。この地の正義と平和、愛と平等を訴えている教会が、工場で呻吟している労働者の苦痛をどんな風に黙殺したのかを神様はしっかり見ていらっしゃったと思います。
当時、東一紡織の裸体示威、糞尿事件などの激しい闘いは世情を騒がせはしましたが、言論は沈黙していました。キリスト教放送さえそっぽを向きました。私達が直接放送しようと思い、キリスト教放送局の放送室を占拠しましたが、その報いは全員拘束でした。キリスト教放送局にも神様はいらっしゃいませんでした。
最後に、4月1〜2日に、私を含めた東一紡織の女性組合員124人がいっぺんに解雇されました。上級労組である全国繊維本部の委員長の名前で124人のブラックリストが作成され、全国の事業体に配布され再就職の道さえ閉ざされました。労働運動を一生懸命やったことで○○罪に問われ、アカと呼ばれ、当局の監視と尾行を受け、手配され監獄生活も送りました。警察署やKCIAに連行され、ひどい拷問も受けました。兄弟達は解雇され、借家からも追い出されました。家族達は夜昼問わず、警察と当局から嫌がらせを受け、統・班長を通して流言飛語が流され、町内を安心して歩けなくなりました。
しかし、私達は闘いをやめませんでした。
私達が苦しいときに歌った当時の歌は次のようなものでした。
「抑圧から逃れようとしてもがいた。
人間らしく生きるために闘った。
神様がくださった権利はどこにあるのだろう。
あなたは知っているのか労働者の声を。
奪われ、おとしめられ、むち打たれた兄弟よ。
正義と真理のために一つになって進もう。
神様がくださった平和はどこにあるのか。
あなたは知っているのか弱者の声を。」
経営側と朴正煕維新政権の弾圧は過酷で、筆舌につくしがたいほどの茨の道が待ち受けていました。しかし、東一紡織の女性幹部達の自信にあふれた闘いは、社会から疎外と抑圧を受けてきた韓国の女性労働者に希望と勝利に対する自信を吹き込みました。御用男性労組執行部の退陣と民主的な女性執行部誕生、民主労組結成が、韓国全国で続いて起こりました。東一紡織女性労組は、70年代の韓国労働運動の出発点であると同時に中心でした。
79年10・26事件で朴正煕が死んだとき、すべての苦難が終わったのだと思いました。78年に解雇され、その後3年余りの間繰り広げられた復職闘争が勝利に終わり、生活のそのものの現場に戻るのだと固く信じていました。しかし、79年12・12軍事クーデター(←訳注必要)と80年5・18民衆虐殺(←訳注必要)によって権力を奪った全斗煥政権は、徹底的に民衆を抑圧しました。70年代から労働運動の中心として運動を主導してきた女性労働運動家達の大部分が解雇・手配・拘束され、民主労組は崩壊し御用執行部が入って来ました。私も急遽、逮捕を逃れるために身を隠さねばなりませんでした。
しかし、労働運動は再び最初の時のように現場で一人、また一人と目覚めまとまって行きました。80年代は、70年代の軽工業の代わりに、重化学工業が中心となり、男性労働者が大幅に増えて、大規模事業場で共に働きました。彼らが70年代労働運動の流れを引き継ぎ、事業場別にひそかに小さな集まりを率い、労働者を団結させ、闘争の火花に火をつけました。また、私のように70年代民主労組をリードしたため現場に戻れなくなった労働者達は、社会労働団体をつくって労働組合を支援し、民主化勢力と連帯して軍事独裁を倒し民主主義を盛り上げるのに集中しました。
87年6・10民主化運動(←訳注必要)のすぐ後に続いた87年7〜9月の労働者大闘争は、韓国社会において、組織された労働者大衆が堂々たる姿で歴史の前面に躍り出た出来事でした。
人が生きていくのに三つの道があるといいます。「今歩んでいる道、歩んで行きたい道、そして行かなければならない道」。私の労働運動に傾けた人生の30年という歳月も、このような変化の過程でした。闘争に明け暮れた年月30年。労働運動にかけた人生30年です。その痛みと苦痛は一人の女性労働者の壮絶な絶叫であり、真の人間宣言でした。詩人の歌にあるように、「戦争のような労働」で骨の痛むような貧しさと労働を体験し、「労働運動をしてから本当の人生が何なのかがわかり」、初めて人間の大切さを感じました。また、「女工」だからといって恥ずかしいことではなく、「労働者」として、この社会における立派な生産の主体であるという自負心を持ちました。
同僚達が耐えられなくなって一人、二人と去っていく時が最も辛かったです。しかし、どんなに辛くても運動を放棄することができませんでした。「女」と「女工」という二つの鎖から解放されるのは運動をすることで初めて可能になりました。
私は、運動をしながら見つけた大切な新しい人生を捨てることができませんでした。よい隣人と出会い大きな喜びを得、「所有」ではなく「分け合って」生きる生き方を見つけました。
また、自由と平和は勝ち獲るものであることを直接体験しました。奪われたものにとっては、自由と平和はまさに闘争して勝ち獲るものであり、同時に愛情をひたすら傾けるべきものです。
運動は、もはや私にとっては奪われることも、放棄することもできない私の人生と愛です。この生き方を見つけるのに30年の月日が流れました。
現在、私は30年の経験を土台にして後輩の養成と地域運動に力を注いでいます。特に、地域の女性−若い主婦達の教育に重点を置いて、女性が地域社会を引っ張って行けるように情熱を傾け、最善を尽くそうと思っています。
それでは、今とこれからの未来に、私たちが共にすべきことについてお話ししましょう。
新しい世紀が開かれようとしています。単に時間の変化ではない時代の転換でなければなりません。資本主義の「成長と競争」の論理は、生命の根源である自然と人類共同体を深刻に破壊してきました。新しい世紀は、女性主義に立脚した男女平等の価値が尊重されなければなりません。共生と調和の原理で「分け合うこと」と「育てること」の「共同体的生き方」が実現されなければなりません。「女性である私」という最も根源的な所から、政治、経済、社会、文化などに対する女性の観点を通した省察が必要であり、積極的に社会の現実に参与していかなければなりません。世の中のすべてのものを商品と消費の対象として作り出す資本主義の前に、自分自身をゆだねてしまえば「私」と「私たち」を失ってしまいます。歴史の中の数多くの先輩女性達が、そして今も闘争している世界の女性達が決して放棄することのできなかった希望の種は、「女性である私」にあります。 韓国の女性労働者達は全国女性労働組合に団結し、新しい挑戦に乗り出し、新しい世紀を準備しています。
今、日本の女性(労働者)はどうでしょうか?確かに、時代の挑戦の前で堂々とした姿を見せていると信じています。
韓国と日本、一番似ていながらも最も遠い二つの国の境界は、「女性」、「アジアの女性」によって克服することができます。共に肩を組んで進んで行く同志として連帯し、女性の希望、女性の夢と未来を共につくっていきましょう。闘争の力強い歩みを速めましょう!女性の名前で世の中を変えましょう! |