「済州島4・3事件と韓国現代史」

1998年4月18日山口市ぱるるプラザ4Fにて

主催:アムネスティ山口グループ

話し手:大阪産業大学教員藤永 壮さん

 タイトルを「済州島4・3事件と韓国現代史」といたしました。いま「レッドハ
ント」をご覧いただいてお分かりかと思いますけれども、単に50年前の話という
のではなく、現在の韓国社会にも、いまだに深刻な影響が残っているという観点か
ら、お話しさせていただきたます。
 それと同時に4・3事件は、「レッドハント」でも描かれているように、日本と
も深い関わりをもっている問題です。このあたりについても、私が考えていること
を若干お話ししたいと思います。
 ここでは主に、4・3事件がどういう経過をたどったのかを中心にお話しします
。「レッドハント」と内容が重複するところもあるでしょうが、当時の状況がお分
かりにならなければ、理解しづらかった点もあろうかと思いますので、そのあたり
を補充するような気持ちで申し上げることにしたいと思います。

徐俊植さんの逮捕について

 この場には、徐俊植さんが「レッドハント」を上映したという理由で逮捕された
ことをきっかけに、この映画に関心をおもちになった方が多いかと思いますので、
まず簡単に事件の経過を振り返ってみたいと思います。
 徐俊植さんを実行委員長として、韓国で第2回人権映画祭が開催されたのは、昨
年の9月から10月にかけてのことでした。もともと徐俊植さんは表現の自由を守
るという立場から、韓国で行われている当局の事前検閲制度に反対して、人権映画
祭を進めておられました。事前検閲に応じないことで、公安当局とずいぶん摩擦が
あったのですが、「レッドハント」の上映を一つの契機として、当局側は11月4
日に逮捕に踏み切りました。
 11月14日には、徐俊植さんの釈放を要求する共同対策委員会が発足しました
。11月28日に徐俊植さんは起訴されるわけですけれども、これに対抗して共同
対策委員会側では12月8日から10日の間に、全国120カ所で「レッドハント
」を一斉上映するという抗議活動を展開しました。
 第1回目の公判は1月30日に開かれましたが、徐俊植さんの健康が思わしくな
いということで、2月5日に保釈金1000万ウォンを支払って、徐俊植さんは一
応保釈されました。公判は1回開かれ、2回目が2月20日に予定されていたので
すが、結局それは無期延期状態になってしまい、2回目の公判はいつ開かれるかわ
からないという状況で今日に至っています。
 この「レッドハント」という映画は、ご存知かと思いますけれども、人権映画祭
に先立ち、釜山国際映画祭ですでに上映されたことがあります。その時には何も問
題にならなかったのに、なぜ徐俊植さんが逮捕される事態になったのかということ
ですけれども、検察の言い分がふるっておりまして、「レッドハント」の上映が問
題なのではなく、徐俊植という人物が問題なんだと述べています。こういう言いが
かりのような形で、徐俊植さんは逮捕されてしまったのです。

「レッドハント」への弾圧

 実は「レッドハント」をめぐりましては、徐俊植さん以外にも二人の方が拘束さ
れたことがあります。一人は先ほど上映の前に紹介しましたけれども、プルン映像
の代表をされている、金ドンウォン監督。この方は人権映画祭の実行委員の一人で
して、1月9日に連行されましたが、1月12日にすぐ釈放されております。裁判
所では「レッドハント」が「利敵表現物」、すなわち北朝鮮を利する制作物である
とは、ただちに判断できないという理由で、検察が要求していた拘束令状を却下し
たのです。
 それからもう一人、この映画を制作したチョ・ソンボン監督。この方も2月10
日に逮捕されました。「レッドハント」がドイツのベルリン映画祭で上映されるこ
とになったので、チョ・ソンボン監督がパスポート発給のため、身元確認を受けよ
うと釜山の警察署に立ち寄ったところを逮捕されたのです。1月8日の時点で釜山
市警はチョ・ソンボン監督に対する逮捕令状の交付を受けていたのですが、ベルリ
ン映画祭に出席しようと、パスポートの発給を受けるために警察に立ち寄ったとこ
ろを逮捕されたわけです。それまで1カ月くらいは何の行動も起こさなかったので
すから、明らかにチョ・ソンボンさんが、ベルリン映画祭に出席できないようにす
る意図があったようです。
 チョ・ソンボンさんの場合も同様に、裁判所は「レッドハント」をただちに利敵
表現物とは判断できないという理由で、3日後には釈放されることになります。し
かしながら結局のところ、チョ・ソンボンさんはベルリン映画祭に出席できなくな
ってしまったわけです。
 こういうふうに徐俊植さん以外にも、二人の方が当局によって拘束されるという
事件が起こりました。そしてさる4月3日は、4・3事件からちょうど50周年だ
ったわけですけれども、この4・3事件の記念日にですね、韓国の各大学で学生た
ちが「レッドハント」の上映会を開催しようとしたのですが、大学当局や警察など
の圧力によって、学生たちの上映活動はさまざまな妨害や圧力を受けたとも聞いて
おります。

4・3事件に対する見方

 韓国における「レッドハント」をめぐる状況は、現在このようなものですが、さ
らに付け加えるならば、4・3事件を扱ったドキュメンタリーを制作したという理
由で、当局が制作者を拘束した事件が、実は徐俊植さんが拘束される以前に一度起
こっています。昨年の10月7日のことでしたけれども、済州島で「眠れない喊声
」という4・3事件のビデオを制作した、金東満さんという方です。この方は私た
ちが大阪にお呼びして、ビデオの上映会と講演会を開催したことがあるのですが、
大阪から済州に帰られた直後に、やはり同じような理由で、つまり4・3事件をテ
ーマとするビデオの制作が「利敵行為」にあたるということで拘束されました。
 金東満さんの場合も、実は3日後の10月10日に拘束令状は却下されて釈放さ
れることになりました。検察側は裁判で争うつもりらしく、先日、金東満さんは起
訴されましたけれども、ともかく徐俊植さん以外のケースでは、裁判所はいずれも
4・3事件を扱った表現物、ビデオとか映画とかがですね、4・3事件をテーマと
したという理由だけでは、身柄を拘束できないという判断を下したというのが韓国
の現状であると言えます。ですからある意味では、徐俊植さんの場合は突出した事
例です。逆に言いますと、徐俊植さんの場合も、4・3事件に関わる問題だけをめ
ぐって彼と裁判で争うのは、公安当局にとっても展望は非常に厳しいのではないか
と私は予想しております。
 ところで、ここでは「済州島4・3事件」というふうに暫定的に申し上げること
にしたい。現在、韓国では単に「済州4・3」というような呼び方をしています。
今のところ政府当局の立場としては、上映前に紹介しました徐俊植さんの起訴状の
中に出てくるように、これは共産主義者の引き起こした暴動ということになってい
ます。一方で「4・3」は、済州島の民衆が祖国の統一と民主化のために闘った抗
争である、4・3民衆抗争であるという見方もあります。そこで韓国では、とりあ
えずいまは妥協的に、この事件はまだ分からないことがたくさんあるので、真相究
明が進み、事実関係がある程度明らかになるまでは、暫定的に「済州4・3」とい
うふうに呼ぼう、「事件」とか「暴動」とか「抗争」とかいう言葉をつけずに呼ぼ
うという状況になっています。しかし日本ではただ「済州4・3」と言っても何の
ことか分かりませんので、私たちは一応「済州島4・3事件」と呼んでいるという
ことです。
 それからもう一点、宣伝になって恐縮なんですけれども、私たちは今年の8月に
、済州島で4・3事件50周年を主題とする国際シンポジウムの開催を計画してお
ります。それに向けて私たちは『東アジアの冷戦と済州島4・3事件』という資料
集を作成いたしました。その序文を私が書くはめになりまして、序文を書きながら
確認したことを少し膨らませたものが、今日の私の講演の内容であるということを
、あらかじめお断りしておきたいと思います。

建国準備委員会と人民共和国

 前置きが大変長くなりましたけれども、1948年に済州島で起こった出来事を
理解するためには、当時の朝鮮半島の全般的な状況、日本の植民地支配から解放さ
れた直後の朝鮮の状況が、どういうものであったのかというところから見ていかな
ければなりません。固有名詞なども出てまいりますので、お手元に配布していただ
いた資料を見ながら、お付き合いいただきたいと思います。
 朝鮮半島が日本の植民地支配から解放された後、「レッドハント」にも出てまい
りましたけれども、朝鮮民族によって主体的に独立国家を建設していこうという動
きが急速に拡散してまいります。朝鮮建国準備委員会という組織が日本の敗戦の日
、1945年8月15日につくられるんですね。その指導者は呂運亨という人物で
して、この人は社会主義的な傾向をもちながらも、共産主義者とは一線を画してい
たというふうに、ひとまずは紹介しておきましょう。1945年の日本の敗戦の時
点で朝鮮にいた政治家としては、大衆的な人気のあった人物であると言われています。
 特にこの呂運亨という人が注目されるのは、日本の敗戦の1年前、1944年8
月の時点で日本の敗戦を予測し、そして日本が戦争に負ければ、朝鮮は独立するこ
とになるわけだから、独立国家の建設を準備するための秘密組織を、戦時体制の下
で結成したことです。彼は同志を集めて1944年8月に、朝鮮建国同盟という組
織をつくっております。
 そこで集めた仲間を中心に、呂運亨は朝鮮建国準備委員会を組織することになる
わけです。これはどういうことかと申しますと、日本の敗戦により、朝鮮を統治し
ていた朝鮮総督府が、もはや自分の力では朝鮮を統治することができない、いまま
で植民地統治によってさまざまな苦痛を与えてきたわけですから、朝鮮の人々が日
本人に対して復讐を企てるかもしれない、危害を加えるかもしれない、少なくとも
これを何とか防ぐために、朝鮮の人たちに信望の厚い人物に朝鮮の治安を委ねるこ
とを考えます。そこで選ばれた朝鮮人のリーダーが、呂運亨であったわけです。
 日本側は単に治安維持だけを考えていたわけですけれども、かねてより日本の敗
戦を予測し、新しい国づくりのために準備していた呂運亨は、それ以上にさまざま
な要求を朝鮮総督府に出し、これを認めさせることになります。つまり建国準備委
員会という組織は、治安維持だけではなく、事実上、朝鮮の行政を担う朝鮮人の自
治的な機関という役割をもつことになりました。そして注目されるのは、この呂運
亨という人は、朝鮮の民族解放運動、独立運動の中にもいろいろな考え方があり、
お互いの関係が必ずしも円滑であったとは言えなかったのですが、祖国の独立とい
う事態に直面して、できるだけ幅広い政治勢力を結集して新しい国づくりをしてい
こう、そのために建国準備委員会を一つの統一戦線体にしていこうという方針のも
とに、活動を始めたということす。
 こうしてつくられた建国準備委員会は、翌8月16日にラジオ放送を通じて、全
国各地にこういう組織ができたということが伝えられます。すると各地方では、自
らすすんで積極的に建国準備委員会の支部を名乗る組織がつくられることになりま
す。現在の私たちの常識では考えられないような急速なスピードでですね、建国準
備委員会の支部が全国で145つくられるという事態になります。そこに集まって
きた人たちというのは、基本的に植民地時代にさまざまな形で民族解放運動に関わ
ってきた人たちで、建国準備委員会の支部というのは、地域における言わば自治機
関のような役割を果たすことになります。日本の統治権力が事実上機能しなくなっ
た状況において、朝鮮の人々による自治的な動きがただちに開始されたわけです。
 そして1945年9月6日に、建国準備委員会のメンバーを中心として、朝鮮人
民共和国という国家の樹立が宣言されます。実態はもちろん国家の体裁を整えるこ
とはできなかったのですが、翌9月7日にアメリカ軍が占領軍として朝鮮に進駐し
てくることが予定されていましたので、朝鮮人自らが、自主的に国づくりをやって
いく意志があるんだということを表明するために、いささか急ごしらえではありま
すけれども、国家の樹立が宣言されたのだと一般には解釈されております。
 こうして朝鮮人民共和国の樹立が宣言されますと、各地の建国準備委員会の支部
は、組織を「人民委員会」というものに衣更えしていくことになります。人民委員
会が各地で、民衆の自治的な機関の役割を果たしていくわけです。

米軍の南朝鮮進駐

 ところが第二次世界大戦後、朝鮮半島は南北に分断されて、アメリカとソ連によ
って占領されることになりました。北緯38度線を境界として南はアメリカ軍、北
はソ連軍が占領する事態になります。アメリカ軍は、日本の敗戦当時は沖縄にいま
した。沖縄戦の主力部隊の一つだった第24軍団が、朝鮮の占領を命じられます。
天候が悪かったせいか、予定より1日遅れて、1945年9月8日に朝鮮にやって
くることになります。
 その司令官であったジョン・ホッジ中将が、以後、南朝鮮における軍政の責任者
になるわけです。彼らは日本側から、朝鮮人への悪意に満ちた、さまざまな情報を
得ていたこともありまして、朝鮮の人々が自ら国づくりに取り組んでいた動きを最
初から理解しようとせず、これと対立する立場をとります。人民委員会は左翼の組
織である、共産主義者の組織であると認識し、そしてやがてこれを弾圧する事態と
なります。
 米軍政は民衆運動勢力を弾圧、抑圧するために、むしろ植民地時代に日本の協力
者として活動していた「親日派」や、右翼勢力を利用して、人民委員会の前に立ち
はだかることになるのです。これは韓国現代史を規定していく、大きな問題となり
ました。
 本来ならば、こういう新しい国づくり、国家の建設という問題は、植民地時代に
独立運動を闘っていた人々、民族解放運動を進めていた政治勢力が中心となって推
進していく、これは第二次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立の事例を見て
いただければ、ほとんどすべてがそういうことになっているわけですけれども、南
朝鮮の場合には、そうはならなかったんですね。民族解放運動を推進していた勢力
は抑圧され、弾圧される立場となる。そして日本の植民地時代に権力に擦り寄って
いた親日派が、今度は反共を旗印に、新しい支配者として登場した米軍政と結びつ
き、その庇護を受け、やがて権力の一部に食い込んでいくという、逆転した状況が
出現することになるのです。
 その後、事態はいろいろ複雑な過程を経るのですが、ここで朝鮮半島全体の状況
から、済州島の状況に目を転じたいと思います。

済州島人民委員会の性格

 済州島におきましても全国各地と同様に、1945年9月10日に建国準備委員
会の支部がつくられ、これは9月23日に人民委員会に改編されます。済州島の人
民委員会は、先ほど「レッドハント」にも出てきましたが、非常に強力な組織、強
力な自治機関として、済州島の人々の圧倒的な支持を得ていました。済州島では少
なくとも1947年の初めまで、すなわち先ほど「レッドハント」に出てきた19
47年3月1日のデモに対する発砲事件の前の段階では、直接米軍政との間で武装
衝突は起こっていませんでした。これは朝鮮半島本土の地域――済州島の人々は「
陸地」という言い方をしますが――「陸地」とは非常に大きな違いでした。
 朝鮮半島本土では、米軍政は人民委員会の弾圧に乗り出し、これに対する抵抗が
1946年の後半から南朝鮮各地で繰り広げられます。特に1946年9月、釜山
にはじまる鉄道労働者のストライキが、全国的なゼネストに発展する。そしてこの
ゼネストが導火線となって、10月には慶尚北道の大邱で、警官隊と民衆のデモの
間で武力衝突が起こり、この民衆抗争も全国に波及する、一般に10月抗争と呼ば
れる事態となります。この10月抗争は1946年の末まで、約3カ月にわたって
展開されますが、米軍政の強硬な弾圧により、左派系の組織はこの段階で非常に大
きな打撃を被ることになります。
 ところが済州島の場合は、この10月抗争に参加をしていないのです。47年の
初めまで米軍政と衝突が起こっていないというのは、こういう意味なのですが、そ
の結果、47年初めの段階まで、済州島の人民委員会は非常に強力な組織を維持し
ていたのです。
 なぜ済州島人民委員会がそんなに力を持っていたかというと、それにはさまざま
な理由が考えられます。もちろんその中心は、植民地時代に民族解放運動を主導し
ていた人々でありました。独立のために闘ってきた人たちが、その中核を占めてい
たわけですね。それと並んで「レッドハント」でも紹介がありましたように、済州
島という共同体社会の中で、人々が密接な関係を結んでいたということもあるでし
ょう。
 それからもう一点、済州島は漢拏山という火山により生み出された島であるため
、土壌が非常に痩せており、米ができません。農業をするのに非常な不利な条件で
あるわけですけれども、そのために朝鮮半島本土のように地主制が発達しなかった
。地主・小作関係がほとんど存在しなかったわけですね。農民たちの大多数は自作
農でありました。ですから貧富の差が少ない、階級対立というものが存在しない、
階級対立に根差すイデオロギー対立もほとんど起こらなかった。そういうところか
ら植民地時代の民族解放運動は、非常に結束力が強いという特徴を持っていました
。こういうふうな背景をもってつくられた済州島の人民委員会でしたから、おそら
く強力な自治機関として存在できたのではないかと考えています。

3・1節示威発砲事件

 しかしながら、人民委員会という名前をつけた組織を、そのまま米軍政が黙って
見過ごすことはできませんでした。人民委員会というのは、アメリカの目からみれ
ば、共産主義者たちの集団であると認識されていたわけです。一つのきっかけとな
ったのが、1947年の3・1節示威発砲事件です。3・1節、これは言うまでも
なく、1919年の3・1独立運動の記念日ですね。植民地朝鮮における最大の独
立運動が3月1日に展開されたわけですが、その28周年を祝う記念式典が、済州
島各地で繰り広げられることになります。済州市だけでなく、済州島の各地で繰り
広げられ、一説によりますと全体で10万人が参加したと伝えられております。当
時の済州島の人口が約30万人と言われておりますから、10万人という数字が本
当なら、3人に1人が参加した計算になります。
 3・1節記念大会は、単に昔の独立運動を祝うだけにとどまりませんでした。す
なわち南北に分断されてアメリカとソ連の占領下におかれている、これをなんとか
統一して、外からの圧力を排除して、自らの力によって統一された独立国家を建設
していこうというのが、この時の集会の重要なスローガンとして登場してくる。そ
れは当時の済州島人民委員会の方針からして、当然の主張だったわけです。
 ここで問題になってくるのは済州市、そこに(レジュメ)に済州邑と書いておき
ましたけれども、これは現在の済州市にあたる行政単位ですが、約3万人が済州市
の場合には集会に参加いたしまして、そして集会が終わった後に街頭にくりだして
自分たちの主張をアピールするデモ行進を繰り広げる事態になっていくわけです。
ところがこのデモ行進を警察側が阻止しようとして発砲する、そしてデモを見物し
ていた人が巻き添えをくって、6名が死亡する、そういう事件が起こるわけですね。
 この事件をきっかけにして、警察が人を殺したことに対して抗議する声が巻き起
こるわけですけれども、こうした抗議活動を警察が弾圧するということが繰り返さ
れます。3月10日には全島的なゼネストが敢行される。官公庁、学校、企業、交
通・通信機関など、あわせて4万人が参加する事態となります。こうして済州島に
おいて、本格的な反米闘争が開始されることになったわけです。

米軍政の弾圧

 しかしこれに対して米軍政は、過酷な弾圧を加えます。特にここで見逃せないの
は、済州島以外の地域から、すなわち朝鮮半島本土から、済州島出身者以外の人間
を派遣する、警察とか右翼青年団などを派遣して弾圧にあたらせたことです。先ほ
ど紹介しましたように、朝鮮半島本土におきましては、すでに警察と、人民委員会
を中心とする勢力との衝突事件はかなり発生しており、本土の警察は民衆勢力に対
して強い敵愾心をもっていました。
 それに加えて右翼青年団も送り込まれます。その代表格である西北青年団は、そ
のネーミングから想像がおつきかと思うんですけれども、北朝鮮から越境して南に
逃れてきた青年たちの組織です。朝鮮半島北部におきまして社会主義政策が進行し
ている、あるいは南とは逆に、かつて日本の統治に協力していた勢力、親日派勢力
は徹底して処分され、処罰を受けることになります。社会主義化によって、たとえ
ば土地を失った人たちですとか、あるいは戦前の親日的な活動によって処罰される
ことを恐れた人々は、南に逃れてくるわけですね。こういう人たちは社会主義、共
産主義に対して非常に強い敵対意識を持っていました。ですからこうした人々が組
織されてつくられた西北青年団という団体は、反共を唱える李承晩の手足となって
、暴力で人民委員会を中心とする民衆運動勢力をつぶしていく、尖兵の役割を果た
していくことになります。
 西北青年団などが済州島に派遣されたことによりまして、一般の済州島民衆にさ
まざまな形での危害が加えられたことは、「レッドハント」でご覧いただいた通り
です。こうして1947年の春以降、済州島には白色テロルの嵐が吹き荒れること
になってまいります。済州島の人々は迫害を避けるために、ある人は自分の住居を
捨てて山の中に逃げる、漢拏山の中に隠れて住む、あるいは済州島を脱出して海外
にわたる、多くの場合、これは日本ということになってくるわけなんですけれども
、こうして漢拏山や島の外に避難する人たちが急速に増えていくことになります。
 1947年末から1948年初めにかけての時期に、朝鮮半島の南北分断の危機
は決定的な段階を迎えることになります。アメリカとソ連の対立が抜きさしならな
い状態になりまして、もともと朝鮮半島は占領の当事者であるアメリカとソ連が、
朝鮮人の代表者をも交えて話し合い、統一した国家として朝鮮を独立させるという
手順になっていたわけなんですけれども、結局アメリカとソ連の意見の対立によっ
て、アメリカは朝鮮独立の問題を国連の場に持ち込むことになるわけですね。
 当時の力関係、数の関係から言って、国連はアメリカが事実上支配していた状況
であったわけです。細かい事情は省きますが、結局、国連が監視できる地域、朝鮮
半島の南部だけに、選挙を行い、国会を開設すること、すなわち憲法を制定するた
めの議員を選ぶ選挙を南朝鮮だけで行うという決定がなされることになります。「
レッドハント」でしきりに単独選挙と言っていたのは、こういうものでありまして
、この選挙が1948年5月10日に予定されたわけです。この南朝鮮だけの単独
選挙が実施されることになりますと、要するにそれは南朝鮮だけで独立国家をつく
る、すなわち北を除外した国家の樹立、南北分断体制が成立することになりますか
ら、1948年初めの段階から南朝鮮の各地では、単独選挙に反対する闘争が展開
されることになってまいります。
 済州島では米軍政に反抗したということで、1年間に約2500名の人々が拘禁
される事態となりました。一方では朝鮮半島の分断が、政治的な日程として緊急の
問題になってくる。そして「レッドハント」にもありましたように、1948年3
月に3人の学生が拷問によって殺されるという事件が発生します。こうして済州島
の人たちは、自分たちの命を守るためには、自己防衛のためには、武装蜂起を行う
しか手がないという、追いつめられた状況になっていくわけです。

武装蜂起の発生

 こういうふうに事態が推移していく中で、ついに1948年4月3日に武装蜂起
が起こることになります。「武装自衛隊」を名乗る左派勢力に主導されたグループ
が、各警察支署でありますとか右翼青年団の宿舎、あるいは幹部の家などを襲撃し
ます。ここで注目しておきたいのは、ここで襲撃の対象となったのは、警察や右翼
青年団ということでありまして、軍ですね、当時は国防警備隊と呼んでおりました
けれども、そういう軍の組織は除外されていたということです。これについてはあ
とで事情をお話ししたいと思います。
 4月3日に起こった武装蜂起は、実は、先ほどから繰り返し申し上げています、
当時南朝鮮で繰り広げられていたさまざまな武装蜂起に比べて、とりたてて規模が
大きいというふうには言えません。しかしながらアメリカはこれに対して、過酷な
弾圧を加えることになるわけです。
 さて最近、特に注目されているのは、先ほど「レッドハント」にも出てきました
けれども、4月28日に武装隊の指導者である金達三という人物と、軍側の責任者
、国防警備隊第9連隊長・金益烈という人、この二人の間に休戦協定が結ばれる。
これを「4・28協商」と呼んでいます。
 当時の国防警備隊、すなわち後の韓国軍になる組織ですけれども、警察や右翼青
年団とはかなり組織の性格を異にしておりまして、左派勢力の影響を受けた人々も
かなりおりました。ですからこの当時、警察や右翼青年団の横暴な振る舞い、暴力
的な行為に対しては批判的な考えを持っている人たちがかなり存在した。特に第9
連隊というのは、済州島現地で集められた兵士が中心でありましたから、同じ済州
島の人どうしの殺し合いという事態になることは、出来るだけ避けたい気持ちを持
っていた。そこで警備隊と武装隊の間で、ひとまずこういう抗争をやめようという
ことで、話がつくわけなんですけれども、結局「レッドハント」で紹介がありまし
た、警察や右翼青年団が仕掛けた吾羅里放火事件というのがきっかけとなりまして
、こうした努力は水の泡になってしまいます。もしこのとき戦闘が中止されていた
ならば、後に起こるような大量虐殺は起きなかったであろうと、今日の観点からで
はありますが、このように言えるでしょう。

5・10南朝鮮単独選挙の阻止

 そして次の日程は、5月10日の南朝鮮単独選挙になってくるわけですね。当然
のことながら武装蜂起した人々は、単独選挙を阻止するための行動に出ます。ゲリ
ラ部隊が各地の選挙事務所を攻撃する。選挙管理委員を拉致したり、一方では選挙
管理委員が自ら辞職したり逃亡したりして、済州島ではまともに選挙を実施するこ
とができませんでした。この時、南朝鮮では全部で200の選挙区が設けられたわ
けですが、済州島には3つの選挙区がおかれていました。しかしその3つのうち、
2つの選挙区の投票率が50%に満たず、アメリカとしても済州島の2つの選挙区
については無効であると宣言せざるをえなくなります。
 こうした動きはアメリカの威信を傷つけ、アメリカを怒らせる要因となったよう
です。アメリカの立場としては、朝鮮において、自らの支援する選挙が滞りなく順
調に実施され、そして新しい国が建設されることを望んでいたにもかかわらず、済
州島の人々はアメリカの方針に対して公然と反旗を翻したということになりますか
ら、これ以降、本格的な弾圧が繰り広げられることになります。本格的というのは
、先ほど言いました国防警備隊ですね、後の韓国軍になる組織、この陣容を大幅に
入れ替えまして、国防警備隊をも鎮圧作戦に動員することになっていくわけです。
以後、鎮圧作戦の主力は国防警備隊に移っていくことになります。
 5月10日の選挙の結果に基づきまして、朝鮮半島南部では憲法を制定するため
の議会が開設されます。これを一般に制憲国会と呼んでいますが、そこで憲法が定
められ、大統領に李承晩が選ばれる。その結果、1948年8月15日に大韓民国
が成立する。そしてこれに対して1948年9月9日には、朝鮮民主主義人民共和
国が成立し、南北分断国家が樹立されるに至ります。

大規模な民衆虐殺の発生

 こういう過程を経てですね、1948年秋以降、本格的な大量虐殺が集中的に繰
り広げられることになってまいります。その経過については、特にこの「レッドハ
ント」が集中的に取材しているところですので、詳しい内容は省略させていただき
ますが、簡単に申しますと1948年10月に海岸から5キロ以上離れた地域、済
州島では中山間地域という言い方をしますが、その地域に居住をしていた人々はす
べて海岸地域に疎開をさせる。この地域はゲリラの根拠地であるから、そこに住ん
でいる人はゲリラと同じ存在であると見なして殺害するというような方針が立てら
れます。
 1948年11月17日に済州島全域に戒厳令が出されますが、戒厳令なるもの
の根拠が非常に疑わしいということも、先ほど「レッドハント」に出てきた通りで
す。そして戒厳令と時を同じくして、「焦土化作戦」と呼ばれる、犠牲者を大量に
発生させた作戦が実行にうつされます。
 「レッドハント」で紹介された事例は、「焦土化作戦」の典型的な事例でありま
した。疎開せよという命令が伝達されず、中山間の村に残っていたために、何ら弁
明も許されず、村が焼き討ちされて村人全員が殺害された事件がありました。
 また疎開したから、海岸地域に下りてきたからと言って、無事であったかという
とそうではない。「レッドハント」で出てきた例では、18歳から40歳までの男
はみんな殺害された。これはゲリラになる可能性がある、あるいはかつて遊撃隊に
加わっていた可能性があるということで、その年齢の男性というだけの理由で殺さ
れる。女性の場合は性的な凌辱を受ける、なぶりものにされた後、虐殺される。女
性に対する凌辱行為も、至るところで見られます。
 もう一つはですね、「レッドハント」の例で言いますと、戸籍に記載された家族
の名前から一人でも欠けていたならば、その欠けている一人というのはゲリラ活動
をしている、遊撃隊に参加しているということで、家族全員が虐殺される。こうい
うふうないろいろな理由で、ありとあらゆる口実で、ゲリラ活動、遊撃隊の活動と
は無関係な人々が、大量に虐殺されるということが、この時期、集中的に繰り広げ
られるわけです。
 こうした虐殺の問題だけではなく、村が焼き討ちされた、そういう物的被害の問
題もあります。済州島では「焦土化作戦」のためになくなってしまった村というの
が、いくつも存在しています。それからそもそも人間の尊厳、それ自体を踏みにじ
るような行為が、これも至るところで繰り広げられます。たとえば村人たちを一カ
所に集めて、その前で老人と若者がお互いにビンタをはりあうように強制させると
かですね、一番ひどい例になりますと、口に出すのもはばかられることですが、母
親と娘婿に公衆の面前で性交を強要するとか、およそ人間として考えられないよう
な行為が展開されるのです。

朝鮮戦争と「4・3」

 済州島で繰り広げられたいわゆる焦土化作戦は1949年、翌年の春くらいまで
続きます。1949年の3月、4月の段階でゲリラ部隊はほぼ壊滅状況に陥ります
。1949年5月10日には、2議席選ばれなかった済州島の国会議員が再選挙で
選ばれる。そして武装隊の総責任者であった李徳九が6月7日に射殺されたことで
、武装隊の活動はほぼ壊滅状態となるのです。
 それと同時にですね、やはり注目しておかなければならない点は、1948年秋
から1949年春にかけて焦土化作戦が繰り広げられた時期が、まさしく韓国にお
ける反共体制が確立した時期でもあったことです。徐俊植さんを拘束した国家保安
法が公布されたのは、1948年12月1日のことであります。
 一方で同じ時期、反民族処罰特別委員会というのがつくられまして、かつての親
日的な、日本に対する協力者を処罰しようという動きも見られたわけですけれども
、結局この国家保安法が適用されることによって、そういう活動に参加していた国
会議員たちが、北朝鮮のスパイであるという名目で逮捕され、親日派処罰の問題も
うやむやにされてしまう。それが1949年5月から6月にかけて起こった、国会
フラクション事件というものです。こういう形で済州島で大量虐殺が進行している
状況とほぼ並行して、韓国における反共独裁政権を支える装置が確立していくこと
になってまいります。
 虐殺はこれ以後も続きます。先ほどビデオの中にも出てまいりましたけれども、
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発するわけですが、その直後から国民補導連
盟――国民補導連盟というのは、左翼組織に入ったことがあると当局が認識してい
た人々を、強制的に加入させた組織ですが、この国民補導連盟の加入者であります
とか、あるいはかつて漢拏山に避難して隠れていた人々、こういう人々が朝鮮戦争
のさなかに予備検束され、処刑されることになっていきます。
 「レッドハント」の最後に出てきた、132人の遺骨が、どれが誰のものとも分
からないまま埋められた「百祖一孫の墓」というのがありますけれども、これは朝
鮮戦争勃発後の虐殺によって犠牲になった方々の墓であるわけですね。あるいは4
・3事件に関連して逮捕されていた人たちは、朝鮮半島本土の刑務所に収監されて
いたわけですけれども、そういう人たちもですね、朝鮮戦争が勃発した後、北朝鮮
との連携を恐れて虐殺される、処刑されるということも起こってまいります。

「4・3」の終わりと犠牲者数

 1953年1月に、遊撃戦用の特殊部隊が投入されて、ゲリラ残余勢力はほぼ根
こそぎにされます。そして1954年9月には、それまで一般の人々が漢拏山に入
れない措置をとっていた、禁足地域という取り扱いをしていたわけですけれども、
これが解除されることになります。この1954年9月21日の漢拏山禁足地域の
解除、これをもってようやく「4・3」が終わったと見るのが、一般的であろうと
思います。6年6カ月にわたる流血の事態が、ようやく幕を下ろすことになったわ
けです。
 さて本日のチラシには、済州島では10万人にのぼる犠牲者が出た、というふう
に数字があげてありましたが、犠牲者の数がいったいどれぐらいであったのかとい
うのは、現在に至るまで、実はよく分からない問題なんですね。ただ現時点で最も
有力な数字としては、まあ3万人くらいであろうと言われております。
 「レッドハント」にも出てまいりましたが、済州道議会が最近、調査を行いまし
て、そこで1万5000名くらいの犠牲者の実名が明らかになりました。具体的に
どこに住んでいる誰が、この事件で死んだのかということが、明らかになってきた
わけですね。ところが家族全員が殺された場合、親戚も一人も残っていない場合な
どは、当然調査する術がないということがしばしば起こりますので、いまとなって
は氏名を明らかにできない人も含めるならば、おおよそその倍、3万人くらいじゃ
なかろうかというのが、済州島での一般的な見方のようです。
 特に注目されるのはですね、済州道議会の調査でもそうだったし、それからこれ
は4・3事件が起こっていた当時、アメリカ軍の記録にもそう書かれていたわけで
すけれども、死亡者の80%以上は、軍、警察、それから右翼青年団によって殺害
された人々であるわけです。圧倒的多数は、権力の手によって殺された人々である
。そしてその中には、「レッドハント」にも出てきましたけれども、10歳以下の
子どもであるとか、60歳以上のお年を召した方が、たくさん含まれていた。これ
だけ見ても、4・3事件によって引き起こされた虐殺というのは、ゲリラ闘争、武
装活動とは何の関係もない人々を巻き込んで繰り広げられたものであったことの、
有力な根拠となるわけです。

「4・3」の真相究明をもとめる韓国の動き

 それでは現在、この4・3事件の真相を求める動きは、どういう状況になってい
るのかということを、少しお話ししておきます。済州島で初めて、公開の場で4・
3事件の犠牲者を追悼する行事が開催されたのは、実は1989年のことです。1
988年が40周年であったわけですが、40周年の時にはついに追悼祭を開催す
ることはできず、41周年、1989年になってようやく在野の社会団体が中心と
なって、初めて済州島で4・3事件の犠牲者をとむらう行事が開催されました。で
すから逆にいいますと、それまでの41年間は、追悼祭さえ実施することができな
かった、そういう状況であったわけですね。
 そして追悼祭を推進した社会運動団体が中心となりまして、「4・3」の真相究
明を行うための資料発掘でありますとか、体験者へのインタビューを行う、専門の
研究所がつくられます。済州4・3研究所が設立されるのです。一方、済州島の地
方新聞である済民日報が、やはり資料の発掘やインタビューを行い、その成果を新
聞に連載する。その連載が現在まで5冊の本になって韓国で発行されております。
日本語訳も4冊出ております。後で参考文献のところをご覧になっていただきたい
んですけれども、こういった研究所の活動、言論機関の努力によって、「4・3」
の具体的な事実経過、真相というものが次第に明らかになってきたわけです。
 そして数年前から済州道議会で、被害を受けた人の申告を受け付ける作業が進み
ました。特にいま焦点になっているのは、当時の権力のさまざまな弾圧・虐殺の実
態を明らかにするためには、国会で議論することが必要であるから、国会に「4・
3真相究明特別委員会」の設置を、済州道議会が、あるいは済州島の人々が請願、
要求しているという状況です。道議会からの請願は2、3年前にすでに出されてい
たわけですけれども、金大中政権の誕生によって、ようやく具体化しつつあるよう
です。4・3事件50周年の記念日を目前にしまして、与党・新国民会議の中に、
4・3特別委員会というのがつくられました。与党側がこうした動きを始めている
わけでして、予想以上に早く、おそらく今年の末までには国会に「4・3真相究明
特別委員会」が構成されるであろうという展望になっています。ですから、いよい
よ4・3事件の真相究明という問題も、国会レベルでの動きが焦点になってきつつ
あるのです。

日本にとっての「4・3事件」

 最後にお話ししたいのは、4・3事件と日本との関わりです。「レッドハント」
で強調されていたのは、親日派がこの事件に果たした役割でした。つまり日本の植
民地支配の負の遺産、韓国ではこれを残滓と呼びますが、植民地支配の残滓が、こ
の悲惨な事件の発生に大きな位置を占めているのです。私たちはこの事実から、目
をそむけることはできません。
 一方、徐俊植さんを逮捕する根拠となった国家保安法が、日本の戦前の治安維持
法をモデルに制定されたものであることは、よく知られています。その意味では国
家保安法も、植民地支配の残滓であると言えるかも知れません。
 50年前、「4・3」の悲劇を引き起こした一つの要因が、日本の植民地支配の
残滓であるならば、今日、徐俊植さんを逮捕する拠り所となったものも、植民地支
配の残滓なのです。このことを日本人として、どう考えていけばよいのか、私の今
後の課題にしたいと思っています。